ナウトピアとは、ユートピア・ナウを縮めた言葉です。ユートピアは、もともと「どこにでもない場所」というのが語源だそうですが、それにnowをつけることで、逆の意味にひっくり返してしまいました。ナウトピアは「今、ここにある場所」。あなたが今いる場所がどこであれ、あなた次第で、そこはナウトピアです。
それは、どこか別の時や場所に理想の地を求めて、「昔は良かったな」とか、「ここは何にもないからな」などとつぶやくのはやめて、足元をしっかり見つめることから始めようってことでもあります。
あるいは、今が理想から程遠いのを状況のせいにして、「いつか、状況が整ったら」、ちゃんと生きようなんて思う。そうこうするうちに、ずるずる、どんどん時間が過ぎてしまってるってことになりかねません。
あるいは、どこかの偉い人、権力をとっても腐敗していない善意の企業家や正義漢の政治家などが現れて、その人におまかせすれば、なんとかなるって思ってる。でも、なかなかそんな人が現れないし、現れたとしてもなかなか選挙に当選してくれないので、やきもきしてる。でも、フラストレーションがそんなふうにたまるのは、人任せにして、受身で待ってるだけだから。でも、自分の身体を使って動くことなら、今、ここで、すぐに始められる。そういう意味のnowでもある。自分なんて小さな力しか持たないって思い込んでいるかもしれないけれど、そんなこと、やってみないとわからない。どんなに不利な状況でも、その時にできることってある。それをやろうって意味でもあります。
山火事で動物たちが逃げまどっている時に、ひとしずくずつ、くちばしに水を加えて運んでは、火にかけ続けるインディアンの神話に出てくるハチドリのように、ナウトピアンは、「できること」をやり続ける人たちだ。
自分のみたい世界に生きれるかどうかは、今日1日をどう生きるか、今、ここで何をするかといった、「今、ここ」での選択と決断の問題なんだって、考えるわけです。だから、あえてユートピアという言葉に、「ナウ」をつけたわけです。
ナウトピアの起源***
ナウトピアというこの言葉は、アメリカ、サンフランシスコの郷土史家のクリス・カールソンさんの発案です。
ずばり、Nowtopia!『ナウトピア』という本を彼は書いていて、日常生活のありふれた要素をそのままパーツとして使いながら、旧い世界の只中に、新しい世界のパターンを生き生きと描いていくものばかりです。
その例として彼があげているのは、 クリティカル・マスに代表される自転車アクティビズム、空き地をどんどん緑化するゲリラガーデナー、バイオディーゼルの普及をはかる人たち、インターネット内のオープンソース、コモンズを広げようとしているネット・アクティビストなどさまざま。共通点として、権力者へのプロテスト、非難、嘆願によって社会を変えようという発想はほとんどとらない。彼らに関心があるのは、「~反対!」よりも、「では、どうすればいいか」、対案を示すことである。しかもそれを言葉で説得するより、直接行動で示し、実例を呈示することを好む。たとえば、地球温暖化防止のために緑を増やすべきだ・・・などという暇があったら、一本でも多く木を植える。あるいは、車社会がコミュニティの場としてのストリートを奪ったと糾弾するより先に、実際にそこを占拠して、ストリート・パーティをはじめる・・・といった具合。そんな風にして、自分たちが提唱するこの「別の世界」が具体的にどんなものか、実際に機能するかどうかを、皆に体験してもらうのです。
あれこれ考えたり、議論したり、説得したりする暇があったら、行動しよう。そうすれば、実際にそれができるかどうか、また、どんな世界が生まれるか、みんな体験して味をしめることができる。いいものだったら、自然と続けたくなるでしょう。特別に組織したり、PRしなくても、運動体として自然に増殖、膨張していく。そして、「何が素敵か」といった人々の価値観やライフスタイル、行動パターンの変化をうながし、着々と世界を変えていく。そんなとてもシンプルな社会運動が紹介されていました。
パンクの哲学***
ねずみ小僧は、泥棒ですが、悪いお金持ちからしか盗みませんし、そこで盗んだものを、貧しい人にばらまきます。社会の法律に照らすと犯罪者です。でも人間的な情に照らすと正しいことをしてるって、みんな思うから、ヒーローになります。
金持ちが貧しい人たちを搾取するというのは、社会が組織的に、日々、自明のこととして行っている悪ですよね。現行の「社会の法」では合法的なことだけど、「人間的な法」から見ると、間違ってる。この2つの法がかち合うエッジに乗り出して、今の社会で当たり前、「合法的」とされてることが、人間的な法に照らすと、どんなにおかしいかをあぶり出すために、合法的にみれば犯罪ギリギリのことに手を染める。このねずみ小僧的な感覚は、アメリカではパンクの活動家によく見られます。
クリス・カールソンが『ナウトピア』で紹介していたクリティカルマスやゲリラ・ガーデニングといった活動も、この手のパンクの感覚がみなぎっています。
たとえば、車と排気ガス道路を自転車で乗っ取るクリティカル・マスのサイクリストたちは、一見乱暴なアウトローに見えます。
でも、ちょっと考えてみれば、戦争の火種にもなる持続不可能なエネルギーを浪費し、大気汚染をふりまく自動車より、自分の脂肪を燃やして走る自転車の方が、クリーンで持続可能。かつ健康にもいいことは、誰でもわかりますよね。
また、都会のコンクリートジャングルの中でも、放置されていて、違法ゴミと落書きだらけの汚い場所が、ある日緑化されて花咲き乱れ、おいしい食べ物が実るガーデンに変わるとすれば、誰しも、そちらの方がいいって思いますよね。
彼の『ナウトピア』には出てきませんが、私がサンフランシスコで会ったエリック・ライルという活動家は、スクウォット、空き家の不法占拠をして、そこでホームレスのために炊き出しをしたり、コミュニティスペースとして解放したりしていました。
これも違法なことだけど、でも、家のないホームレスがたくさんストリートに住んでいる街に、空き家がたくさんある。なんでそんなに空き家があるかというと、財産運用のため、投機のチャンスがくるまで、とりあえ買いおさえておこうとする金持ちがいるから。彼らはそうやって、街の不動産が、普通の住民には誰にも買えなくなるほど高騰するのに加担しているのです。そんな背景がわかってくると、「スクウォッター、頑張れ!」とハンカチを振りたくなってしまうのが、人情というものです。
そんなふうに、誰しも「正しい」と思うことをやっては、警察に捕まり、世の中、どんなに狂ってるかをあぶりだすのが、パンクの哲学です。
日本的な「ナウトピア」***
日本だって、ねずみ小僧がヒーローになる国。パンク的な素質、持ってるはずです。でも、アメリカで出会った彼らの話を私がしたり、彼らを日本に呼んで話をするたびに、参加者の感想として出るのは、アメリカではできても日本では無理だってこと。日本では「長いものに巻かれ」、「しがらみに弱く」、同調圧力下で縮こまって生きてる人がまだまだ多い。何が正しいかわかってはいても、そのために人と違うことをしたり、アウト・ローすれすれのリスクを犯す冒険をしようなんて人はなかなかいない・・・などなど、よく言われます。
その当否はともかくとして、文化差があるのは確か。それに、それは必ずしも悪いことではないって思ってる。
たとえば、アメリカにちょっと住めば、鋭い対決を避けて同調しようとする日本人の共感能力をとてもありがたいと思うようになる。ずいぶん物騒になってきたとはいえ、まだまだ日本の犯罪率の低さは驚異的だし、まずは同調してもらえるって期待しながら見知らぬ人と接することができるなんて、実はとても贅沢なこと。なんともいえない安心感の源になってるのも確か。
問題は、共感対象を選別してしまって、マジョリティや権力者、自分と似た人たちとばかり共感しようとする人が多いことかもしれません。
そういう偏りをなくして、どんなに弱い立場にいるマイノリティにたいしても、日本人特有の同調・共感能力を向けることができれば、すばらしいのでは?
それで私も、最初は、パンク的でヒロイックな活動が日本にはなかなかないのを嘆いたり、尻込みする人に葉っぱをかけたりしていたのですが、最近は作戦をあらためることにしました。むしろ、すでに私たちのものになってる共感能力にフォーカスをあてたナウトピアの展開をうながしたいなって思うようになったのです。
それに、1回目の番組のなかで洋子さんも言ってるように、ナウトピアはあくまで、今、ここではじめるもの。アメリカではできるけど日本では無理なんて発想自体、本来なら出てこないはず。
今、ここの状況がどうであれ、それを「制限」とみなさず、「チャンス」とみる。つまり、文句ばっかり言うのはやめて、どうすればそれを生かせるかなって考えて、今、あるものでできることを、すでにはじめてしまおうということこそ、ナウトピアなのですから。
そんなわけで、私の本やここで紹介しているナウトピア・バージョンは、カールソンさんのオリジナル・バージョンとはかなり重点が異なっています。
でも日本人の共感能力を生かしたナウトピアってどんなものになるのでしょうか?
見たい世界の質、クオリティ(幸福感といった)を先取りして、日本人お得意の共感能力でどう分かち合い、表現していくか。それによって、旧態依然とした発想パターンや感性を組み替え、私たちの生活を、そして社会のありようをどう組み替え、新たにしていくか・・・といったことが焦点になってきます。
「共感」なんていうと、思い切った変革なんかできなくなるのでは? という気がするけれど、そうとも限らないって思っています。対立関係を作ると反発を招いてしまい、態度の硬化を招くことがあります。どんな政治的に真反対の立場にある人も、同じ人間。共通点の方が本来多いはずなのに、「相違点」「対立点」ばかり強調するので、溝ばかり深まっていく。様々な党派が睨みあうような構造が出来てしまう。
これに対して、私の日本版ナウトピアでは、見たい世界の中にある要素を、現状と対立するところを強調するのではなく、逆に共感できる対象、共有できる体験の質、クオリティを強調しようとします。それが「わかる」人を増やし、育てることで、極力、対立をつくらずに、変化を起こそうとするものです。
たとえば、私の知人の大徳郁子さん。食の危機、とくに忙しい家庭で出来合いのもので育つ子供たちや、身体が資本なのにコンビニお弁当でお昼を済ます肉体労働者のことが、気がかりでたまらなかったそうです。でも、嘆いてばかりはいられないと、自宅ガレージで、無農薬野菜の八百屋を四年前に始めました。いま、ここでできることからやる生粋のナウトピアンだっていえます。
ただ、いかにも日本人的で面白いのは、「ここの食べ物は、安心、安全なんて言わないんです、当たり前ですから」というのが彼女の口癖なことです。
もちろん、スーパーに並んでる食の多くが、添加物や農薬漬けなことは確か。でも、そうした危機を訴える啓蒙的な態度の裏には、どうしても、お客さんがそのままでは「無知」で、そのままでは正しいチョイスができないという見下した前提がつきまといます。それに、食習慣のように、プライベートで、愛着や、個人的な記憶が染み込んだことを頭ごなしに「間違ってる」なんて指摘されると、ムッとするし、反発を招いてしまいます。良かれと思ってやることが、逆に事態を紛糾させることになりかねません。
でも、こうした対立姿勢を避けながら、それでも必要な変化を起こすことってできるのでしょうか?
何も言わず、ひたすら、本物の体験へと招待すればいいわけです。
思えば、人間の食の歴史を長いスパンで眺めてみると、無農薬、無添加の、地元で採れた季節のものをいただくって、本来、当たり前。遠くから取り寄せた季節はずれのものだとか、農薬、化学肥料、化石燃料を使って量産された食が出回るなんて、ここ数十年前に始まった異常事態に過ぎません。でも、そんな環境にどっぷり使って暮らしていても、体は、DNAは「当たり前」を覚えています。だからこそ、それに出会えば、「そのまんまの美味しさ」に感動するし、何より体が喜びますだから、正論振りかざして、言葉で説得する必要もない、というわけです。クレイジーな世の中で、しばらく忘れられていたこの「当たり前」を思い出してもらえればいいわけだから。
実際、お客さんに足らないところなんて、何にもない。もしあるとしたら、それは「当たり前」だったことを、「当たり前」として思い出すための一押しになるような、ちょっとした体験、きっかけ。またそこで得られた気づきを、継続的な習慣やライフスタイルに落とし込むためのサポート(例えば近所で手軽な値段でいつでもそれが手に入るとか)にすぎない。彼女の八百屋は、そのための場所だというのです。
だからあえて、ここにあるのは安心安全な野菜だといった「当たり前」のことを、口にしない。それは、とても控えめに見えるけれど、食材に対して、お客さんに対して、揺るがぬ信頼がないとできることじゃない。ある意味とても強気で確信に満ちた姿勢といってもいいかも。好戦的な対立姿勢は一切とらないのに、だからこそ、みんなの生活にじわじわと浸透し、10年後には、本当にそれを「当たり前」にしてしまうような勢いがあると思っています。
そんなふうに、見たい世界のクオリティが「わかる」人を、対立、反発を招きがちな言葉によらず、体験の共有で増やしていく。
本物の野菜の味に慣れると、普通のスーパーのものが食べられなくなるというふうに、この体験が進むにつれ、私たちの身体感覚、感性、知性はじわじわ組み替えられていきます。
つまり、そんななかで、今の私たちの慣行的なやり方、ルールが機能不全に陥っているのに気づく人も増えてくる。
そうすると、もっといいやり方はないか・・・って考え出すし、行動にもあらわすようになることが見込まれます。その中には、パンクやねずみ小僧風の思い切った行動に走る人もぽつぽつ出てくるかもしれません。
そうなると、アメリカのナウトピアと結局同じところに行き着く。ただ彼らがまず人の法と社会の法の矛盾をつく、ポイントを得たヒロイックな行動からはじめるのに対して、私のバージョンでは、最後にくるというふうに、順番が違うだけといってもいいかもしれません。
大徳郁子さんの八百屋Veggi 岩見沢市美園2条5丁目1−18 電話 090 5226 5585
洋子さんの「時空のやど」の近くにあります。