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草の根文化の苗床

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ナウトピアのキーワード まるごと変える!

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部分的な解決をガス抜きに使うことで、全体的な解決にストップがかけられることってよくある。アボリジニたちにメッセージを託されながら、共に暮らしたことのあるアメリカ人マルロ・モーガンによると、アボリジニの人たちは、白人の宣教師が、食事の前に感謝の祈りをするようにと諭されて、とても奇妙に感じたという。(マルロ•モーガン『ミュータント・メッセージ』角川文庫)

というのも、そんなことしなくても、彼らは感謝と共に目覚めるし、必要なものが手に入ることを、あたりまえだなんて思ったことはない。自然、とくに大地など、人間以外のあらゆるものにも感謝を捧げ、それをすべての行動であらわそうとするから、必要以上のものは絶対に取ろうとしないし、お返しできるチャンスは逃そうとしない。つまり生活全体で感謝をあらわしてる。だから、そこにたくさんの生き物がひしめく神聖な大地を切り売りして売買したり「開発」したりなど、思いつくことすら不可能だ。

もし感謝を教えるのだったら、まずは、まずは感謝を生きて欲しい、それをライフスタイルに、社会の仕組みにきちんと落とし込んで、自然や互いから奪い合うような生き方をまずはしないで欲しいというのが、アボリジニの人たちの言い分だ。圧倒的に、「自分さえよければ」と取り合い、競争することでなりたつ世界の中に、ところどころ申し訳程度に、感謝の気持ちをあらわす島をポツリポツリと浮かべることで、なんとか気が狂わないようにするなんてことはしないで欲しいというわけだ。

それは、見たい世界そのものになることをモットーにするナウトピアンの言い分でもあると思う。難しく見えるけど、ガンジーのいうように、「見たい変化にまずはあなたがなる」ことが本当にできれば、おのずとできることなんじゃないかって思う。

言い訳のような部分的解決だったら、私たちの世界に、ごまんとある。時々、地球にやさしいエコ商品を買うとか、クリスマスや誕生日だけ贈り物をするとか。余暇にアートに触れる、趣味としてアートを嗜むときだけ、クリエィティブになるとか。自然に囲まれたリゾートの中でマッサージを受けてるときだけ、すべてのものとの一体感を感じるとか。

もちろんこうした体験が、生き方全体に及ぶようなもっと広範な変化への入り口になることがあるのは確か。でも、本気で変化したかったら、それを生き方全体に、社会の仕組みの全体におとしこまなきゃいけない。たとえば、「生かされていること」そのものをすでに贈り物として受け取る、その感謝の気持ちを表しながら一瞬一瞬を生きる。生活全体をアートに高め、美的、倫理的に自分で納得できること以外はやらないようにする。たまに祝祭なのではなく、毎日が祝祭というふうに。


# by makikohorita | 2016-09-27 19:21 | ナウトピア 日本版

ナウトピア人名録 ガレージの小宇宙 やおやのVeggyのいくちゃん

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岩見沢市は、平らな土地で、大規模農家が多い。しかも、特に玉ねぎ農家が多いものだから、撒かれる農薬量は相当のもの。農薬を散布した畑からの虫の逃げ道をふさぐために、道にも農薬を撒くこともあるそうだ。私の知り合いの奥さんは、ちょうど梅干しを外に干している時に、そばの道を農薬散布車が農薬を撒き散らして行った。町内会で訴えると、農業への補助金の一部が、農薬の現物支給で代えられていたので、農薬が余り、道に撒いて回ったのだとか。

そこの山で、みんなそれぞれ、好きな生き物に扮して、その生き物を代表するという設定で「全生命の集い」という催しを主催させてもらったことがある。そのとき、前置きのスピーチに、「周りの鳥や虫の声に耳を澄ましてみましょう」というというセリフを入れていたけれど、現地に行ってみると、真夏なのに、鳥の声もしないし、虫の声もしない。ひたすらシーンとしているのでびっくり。もちろん、イベントのために、草刈りをしっかりしてあったこともあると思うけれど、山の麓に広がる農地との関係もありそうだ。

農薬で虫が全滅すると、当然それを食べる鳥もいなくなる。札幌の住宅地にある私の家の方が、虫の声も鳥の声も断然賑やかだった。田舎に行くほど昆虫も鳥もいなくなるというのは、飛行機で農薬散布するような大規模農家が多い北海道ではよくあること。

そんな岩見沢で、自然食の八百屋をいとなむ大徳郁子さんこといくちゃん。戦闘姿勢で、無農薬野菜の理解、普及に努めていると思いきや、おっとり自然体。このお店を開店した一番の動機はと聞くと、近所に共働きの家が多くて、忙しいお母さんに育てられている子供達の食生活が気になったとのこと。どうしても出来合いのもの、加工食品が増えて、安全や栄養状態が気になるだけでなく、きちんと家族揃って、食卓整え、手料理を食べる、食にまつわる文化の崩壊や情操面での影響が心配なのだそうだ。

もちろん共働き家庭で手料理をつくり続けるのは大変だけど、素材が本物、旬の新鮮なものだったら、そのまんま、ほとんど何にもしなくても、美味しく食べられること含めて、知ってもらいたい。確かに、採りたての美味しい野菜、たとえばイモやかぼちゃを無水鍋などでさっと茹でて、お塩やオリーブオイルをたらっと垂らしただけというのが、やっぱり、いちばんおいしいなって私も思う。あれこれ加えて調理すればするほど、まずくなってしまう。というより、素材の味がわからなくなって、自然とじかにコミュニケーションする楽しみが味わえなくなってしまう。

いくちゃんはまた、そのおしゃれで優雅な今の外見から、想像もつかないけれど、昔、男ばかりに混ざって土木工事の仕事をしていたことがあるという。力仕事で、まともにやっていたら、簡単に体を痛めてしまう。そんな中、最小限の力を使って、最大限の効果を出すような体の使い方の研究にはまっていたとか。例えば、呼吸の使い方。重いものも、深呼吸して、吐く息と一緒に、持ち上げると、楽に動かせること。膝と腰に負担が分散するように、膝を曲げて腰を低めるポーズをとるといいなど。最小限の努力から、最大のものを引き出す姿勢は、先ほどの「ほとんど調理しなくても、そのまんまで美味しい野菜」の探求に通ずるものがある。泥にまみれる肉体労働しながら、無駄がなくてエレガント、かつスマートな生きる知恵の研究をしていたなんて、さすがだ。

と同時に、もちろん、彼らが何を食べているかも気になった。体が資本のはずの肉体労働者の人たちが、コンビニのお弁当やカップラーメンで食事を済ませている。若さで今は持っていても、年を取ってからどうなるのだろうなどと心配だったとか。

だからと言って、言葉で危機意識を煽ったり、啓蒙活動に努めるようなことは、しないという。手間暇かけて、本当に納得できるいい食材を探す努力をしながら、それを表に出さない。「安心安全って、言わないんです。だってそれって、当たり前のことですから」というのが口癖だ。さりげなく口にされているようで、深い、この「当たり前」という言葉。その意味するところ、もうちょっと深く探りを入れてみたい。

思えば、人間の食の歴史を長いスパンで眺めてみると、無農薬、無添加の、地元で採れた季節のものをいただくって、本来、当たり前。遠くから取り寄せた季節はずれのものだとか、農薬、化学肥料、化石燃料を使って量産された食が出回るなんて、ここ数十年前に始まった異常事態に過ぎない。でも、そんな環境にどっぷり使って暮らしていても、体は、DNAは「当たり前」を覚えてる。だからこそ、それに出会えば、「そのまんまの美味しさ」に感動する。何より体が喜ぶ。だから、正論振りかざして、言葉で説得する必要もない。クレイジーな世の中で、しばらく忘れられていたこの「当たり前」を思い出してもらえればいいわけだから。

それは、お客さんのこの思い出す力、感性、味覚、何が健康的かを本能的に見分ける身体感覚を信頼する、当てにするってことでもある。

それに、食の危機、崩壊を訴える啓蒙的な態度の裏には、どうしても、お客さんがそのままでは「無知」で、そのままでは正しいチョイスができないという見下した前提がつきまとう。食習慣のように、プライベートで、愛着や、個人的な記憶が染み込んだことを頭ごなしに「間違ってる」なんて指摘されると、ムッとするし、反発を招いてしまう。良かれと思ってやることが、逆に事態を紛糾させることになりかねない。

こうした対立姿勢を避けながら、それでも必要な変化を起こすにはどうすればいいか?

何も言わず、ひたすら、本物の体験へと招待することだろう。

実際、お客さんに足らないところなんて、何にもない。もしあるとしたら、それは「当たり前」だったことを、「当たり前」として思い出すための一押しになるような、ちょっとした体験、きっかけ。またそこで得られた気づきを、継続的な習慣やライフスタイルに落とし込むためのサポート(例えば近所で手軽な値段でいつでもそれが手に入るとか)にすぎない。

だからあえて「当たり前」のことを、口にしない。それは、とても控えめに見えるけれど、食材に対して、お客さんに対して、揺るがぬ信頼がないとできることじゃない。ある意味とても強気で確信に満ちた姿勢といってもいいかも。好戦的な対立姿勢は一切とらないのに、だからこそ、みんなの生活にじわじわと浸透し、10年後には、本当にそれを「当たり前」にしてるような勢いがある。

気負いのない姿勢は、創業エピソードにも表れている。土木の仕事の後、しばらく農家の手伝いをした。無農薬の米農家で、今思えば、生産現場に馴染むための貴重な体験を積むと同時に、あらためて、「当たり前」の食に対する興味を確認したという。女一人でこれからどうやって生きていこうかな?と思った時に出会ったのが、札幌で棚をつけたコンパクトカーに無農薬野菜を積んで、仕入れては売っている長野夫妻。こういうスタイルだったら、始められそうと、とりあえず、車で売り歩くのを始めたけれど、本拠地を作ってお客さんを待つのもいいなと思いいたり、自宅ガレージを改造して、店作りを始めた。お店を開けている時には、車は路駐していて、お店をたたむ夕方には、中のものを全て片付けて、車を入れる。手間がかかるけれど、借金をしなくてすむし、家賃の支出もないから。できることから、DIYで、今、ここでできることから始める。まさにナウトピアン的な姿勢だ。

ガレージの周りには、手作り手書きの木の看板と、風船かづらやクレマチスなどのつる植物が絡み付いた生垣がある。野菜名を記した札も、すべて手書き。簡単なイラストや、商品についてのコメント、食べ方の説明も書いてある。無農薬、自然食品のすべてが概してそうであるように、とっても手間暇かけてある。それをさりげなく、ディスプレイする。だから一見すると、ちょっとかわいらしい八百屋。普通にショッピングをさっと楽しむこともできるけれど、立ち止まって野菜につけられた札に書き込まれた言葉を読んでいったり、郁子さんに質問して、個性豊かな生産農家の物語など聞き始めると、奥深い世界がそこに広がって、いくらでも、時間がつぶせる。車一台用の車庫を使った小さなスペースなのに、すごい情報量だ。時間をかけて見れば見るほど、いろんな発見、驚きがあるのも魅力だ。

「宣伝が下手なので」無理に宣伝しようとしたり、情報媒体での掲載を狙ったりはしなかったという。ただただマイペースに、郁子さんの美意識と流儀に貫かれた場所を手作りすることで、それに共鳴する人を引きつけていく。店の野菜そのものと、そこにいる郁子さん自身が、何よりもの宣伝媒体。ここにも、「そのまんまの素材で勝負」、「最小限のものから、最大限のものを引き出す」、「当たり前が一番」といったポリシーが貫かれてる。

郁子さんは、ミュージシャンで、ドラマーであり、コンサートのオーガナイザーもやる。元々表現者なのだ。私が彼女に初めて会ったのは、私の本についての岩見沢でのイベントだったけれど、自分の夢についてイメージ豊かに語る彼女の表現力は、粒ぞろいの参加者の中でも格別だった。

もちろん、口コミだけでお客さんを作っていくのは時間がかかったけれど、良質な固定客を作るにはやはりこれが一番。お客さん同士も元々知り合いだったり、通ううちに知り合いになったりして、ちょっとした立ち話ができるコミュニティスペースとしても機能してる。

気楽におしゃべりできる雰囲気があることで、どの野菜が特に美味しかったとか、それをどうやって食べたら、いいかとか、どんなものを皆、欲しがっているかとか、どこにいい農家があるかといった仕事のための情報収集も進む。

ドラマーとして、また音楽イベントのオーガナイザーとして今も活躍する郁子さん。コンサートがやめられない理由として、ミュージシャンが投げたかけた音楽が生み出す「感動」が、お客さんに届くと、それがお客さんの数で掛け合わされて、何倍にも膨れ上がり、その場を満たす。その姿を見て、自分も感動する。その快感に病みつきになってしまっているのだとか。

八百屋も全く同じだという。元気な野菜がたくさん並べられ、それを中心に、来た人の話も弾む。元気になって、思い思いの形で、何かそこに残していく。ちっちゃいガレージにありながら、そうやってどんどん場としてエネルギーを上げていく八百屋も、さながらライブ・コンサート会場のよう。

こうしたエネルギーのやりとりで、自分は生きてるんだ、とのこと。そしてもう一つ、八百屋と音楽の共通点があるとのこと。これについては彼女自身の言葉を引こう。

「食べ物や音楽を生み出す農家さんやアーティストたちの人柄に私がゾッコンで惚れ込んでリスペクトしているんです、私がまず感動してグラグラなんですね(笑)自分が感動したものでないと思いは届かないのだな~とか思っています」。

感動こそ、生きる力といういくちゃん。音楽や美味しい食べ物を媒体に、感動をどんどん広げていく、そんないくちゃんの活躍から、今後も目が離せない。

大徳郁子さんのやおやのVeggy 岩見沢市美園2条5丁目1−18 電話 090 5226 5585
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# by makikohorita | 2016-09-26 12:03 | ナウトピア 日本版

アメリカ版ナウトピアと日本版ナウトピアの違い

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ナウトピアとは、ユートピア・ナウを縮めた言葉です。ユートピアは、もともと「どこにでもない場所」というのが語源だそうですが、それにnowをつけることで、逆の意味にひっくり返してしまいました。ナウトピアは「今、ここにある場所」。あなたが今いる場所がどこであれ、あなた次第で、そこはナウトピアです。

それは、どこか別の時や場所に理想の地を求めて、「昔は良かったな」とか、「ここは何にもないからな」などとつぶやくのはやめて、足元をしっかり見つめることから始めようってことでもあります。

あるいは、今が理想から程遠いのを状況のせいにして、「いつか、状況が整ったら」、ちゃんと生きようなんて思う。そうこうするうちに、ずるずる、どんどん時間が過ぎてしまってるってことになりかねません。

あるいは、どこかの偉い人、権力をとっても腐敗していない善意の企業家や正義漢の政治家などが現れて、その人におまかせすれば、なんとかなるって思ってる。でも、なかなかそんな人が現れないし、現れたとしてもなかなか選挙に当選してくれないので、やきもきしてる。でも、フラストレーションがそんなふうにたまるのは、人任せにして、受身で待ってるだけだから。でも、自分の身体を使って動くことなら、今、ここで、すぐに始められる。そういう意味のnowでもある。自分なんて小さな力しか持たないって思い込んでいるかもしれないけれど、そんなこと、やってみないとわからない。どんなに不利な状況でも、その時にできることってある。それをやろうって意味でもあります。

山火事で動物たちが逃げまどっている時に、ひとしずくずつ、くちばしに水を加えて運んでは、火にかけ続けるインディアンの神話に出てくるハチドリのように、ナウトピアンは、「できること」をやり続ける人たちだ。

自分のみたい世界に生きれるかどうかは、今日1日をどう生きるか、今、ここで何をするかといった、「今、ここ」での選択と決断の問題なんだって、考えるわけです。だから、あえてユートピアという言葉に、「ナウ」をつけたわけです。

ナウトピアの起源***

ナウトピアというこの言葉は、アメリカ、サンフランシスコの郷土史家のクリス・カールソンさんの発案です。

ずばり、Nowtopia!『ナウトピア』という本を彼は書いていて、日常生活のありふれた要素をそのままパーツとして使いながら、旧い世界の只中に、新しい世界のパターンを生き生きと描いていくものばかりです。

その例として彼があげているのは、 クリティカル・マスに代表される自転車アクティビズム、空き地をどんどん緑化するゲリラガーデナー、バイオディーゼルの普及をはかる人たち、インターネット内のオープンソース、コモンズを広げようとしているネット・アクティビストなどさまざま。共通点として、権力者へのプロテスト、非難、嘆願によって社会を変えようという発想はほとんどとらない。彼らに関心があるのは、「~反対!」よりも、「では、どうすればいいか」、対案を示すことである。しかもそれを言葉で説得するより、直接行動で示し、実例を呈示することを好む。たとえば、地球温暖化防止のために緑を増やすべきだ・・・などという暇があったら、一本でも多く木を植える。あるいは、車社会がコミュニティの場としてのストリートを奪ったと糾弾するより先に、実際にそこを占拠して、ストリート・パーティをはじめる・・・といった具合。そんな風にして、自分たちが提唱するこの「別の世界」が具体的にどんなものか、実際に機能するかどうかを、皆に体験してもらうのです。

あれこれ考えたり、議論したり、説得したりする暇があったら、行動しよう。そうすれば、実際にそれができるかどうか、また、どんな世界が生まれるか、みんな体験して味をしめることができる。いいものだったら、自然と続けたくなるでしょう。特別に組織したり、PRしなくても、運動体として自然に増殖、膨張していく。そして、「何が素敵か」といった人々の価値観やライフスタイル、行動パターンの変化をうながし、着々と世界を変えていく。そんなとてもシンプルな社会運動が紹介されていました。

パンクの哲学***

ねずみ小僧は、泥棒ですが、悪いお金持ちからしか盗みませんし、そこで盗んだものを、貧しい人にばらまきます。社会の法律に照らすと犯罪者です。でも人間的な情に照らすと正しいことをしてるって、みんな思うから、ヒーローになります。

金持ちが貧しい人たちを搾取するというのは、社会が組織的に、日々、自明のこととして行っている悪ですよね。現行の「社会の法」では合法的なことだけど、「人間的な法」から見ると、間違ってる。この2つの法がかち合うエッジに乗り出して、今の社会で当たり前、「合法的」とされてることが、人間的な法に照らすと、どんなにおかしいかをあぶり出すために、合法的にみれば犯罪ギリギリのことに手を染める。このねずみ小僧的な感覚は、アメリカではパンクの活動家によく見られます。

クリス・カールソンが『ナウトピア』で紹介していたクリティカルマスやゲリラ・ガーデニングといった活動も、この手のパンクの感覚がみなぎっています。

たとえば、車と排気ガス道路を自転車で乗っ取るクリティカル・マスのサイクリストたちは、一見乱暴なアウトローに見えます。

でも、ちょっと考えてみれば、戦争の火種にもなる持続不可能なエネルギーを浪費し、大気汚染をふりまく自動車より、自分の脂肪を燃やして走る自転車の方が、クリーンで持続可能。かつ健康にもいいことは、誰でもわかりますよね。

また、都会のコンクリートジャングルの中でも、放置されていて、違法ゴミと落書きだらけの汚い場所が、ある日緑化されて花咲き乱れ、おいしい食べ物が実るガーデンに変わるとすれば、誰しも、そちらの方がいいって思いますよね。

彼の『ナウトピア』には出てきませんが、私がサンフランシスコで会ったエリック・ライルという活動家は、スクウォット、空き家の不法占拠をして、そこでホームレスのために炊き出しをしたり、コミュニティスペースとして解放したりしていました。

これも違法なことだけど、でも、家のないホームレスがたくさんストリートに住んでいる街に、空き家がたくさんある。なんでそんなに空き家があるかというと、財産運用のため、投機のチャンスがくるまで、とりあえ買いおさえておこうとする金持ちがいるから。彼らはそうやって、街の不動産が、普通の住民には誰にも買えなくなるほど高騰するのに加担しているのです。そんな背景がわかってくると、「スクウォッター、頑張れ!」とハンカチを振りたくなってしまうのが、人情というものです。

そんなふうに、誰しも「正しい」と思うことをやっては、警察に捕まり、世の中、どんなに狂ってるかをあぶりだすのが、パンクの哲学です。

日本的な「ナウトピア」***

日本だって、ねずみ小僧がヒーローになる国。パンク的な素質、持ってるはずです。でも、アメリカで出会った彼らの話を私がしたり、彼らを日本に呼んで話をするたびに、参加者の感想として出るのは、アメリカではできても日本では無理だってこと。日本では「長いものに巻かれ」、「しがらみに弱く」、同調圧力下で縮こまって生きてる人がまだまだ多い。何が正しいかわかってはいても、そのために人と違うことをしたり、アウト・ローすれすれのリスクを犯す冒険をしようなんて人はなかなかいない・・・などなど、よく言われます。
その当否はともかくとして、文化差があるのは確か。それに、それは必ずしも悪いことではないって思ってる。
たとえば、アメリカにちょっと住めば、鋭い対決を避けて同調しようとする日本人の共感能力をとてもありがたいと思うようになる。ずいぶん物騒になってきたとはいえ、まだまだ日本の犯罪率の低さは驚異的だし、まずは同調してもらえるって期待しながら見知らぬ人と接することができるなんて、実はとても贅沢なこと。なんともいえない安心感の源になってるのも確か。
問題は、共感対象を選別してしまって、マジョリティや権力者、自分と似た人たちとばかり共感しようとする人が多いことかもしれません。
そういう偏りをなくして、どんなに弱い立場にいるマイノリティにたいしても、日本人特有の同調・共感能力を向けることができれば、すばらしいのでは?
それで私も、最初は、パンク的でヒロイックな活動が日本にはなかなかないのを嘆いたり、尻込みする人に葉っぱをかけたりしていたのですが、最近は作戦をあらためることにしました。むしろ、すでに私たちのものになってる共感能力にフォーカスをあてたナウトピアの展開をうながしたいなって思うようになったのです。
それに、1回目の番組のなかで洋子さんも言ってるように、ナウトピアはあくまで、今、ここではじめるもの。アメリカではできるけど日本では無理なんて発想自体、本来なら出てこないはず。
今、ここの状況がどうであれ、それを「制限」とみなさず、「チャンス」とみる。つまり、文句ばっかり言うのはやめて、どうすればそれを生かせるかなって考えて、今、あるものでできることを、すでにはじめてしまおうということこそ、ナウトピアなのですから。
そんなわけで、私の本やここで紹介しているナウトピア・バージョンは、カールソンさんのオリジナル・バージョンとはかなり重点が異なっています。
でも日本人の共感能力を生かしたナウトピアってどんなものになるのでしょうか?
見たい世界の質、クオリティ(幸福感といった)を先取りして、日本人お得意の共感能力でどう分かち合い、表現していくか。それによって、旧態依然とした発想パターンや感性を組み替え、私たちの生活を、そして社会のありようをどう組み替え、新たにしていくか・・・といったことが焦点になってきます。
「共感」なんていうと、思い切った変革なんかできなくなるのでは? という気がするけれど、そうとも限らないって思っています。対立関係を作ると反発を招いてしまい、態度の硬化を招くことがあります。どんな政治的に真反対の立場にある人も、同じ人間。共通点の方が本来多いはずなのに、「相違点」「対立点」ばかり強調するので、溝ばかり深まっていく。様々な党派が睨みあうような構造が出来てしまう。
これに対して、私の日本版ナウトピアでは、見たい世界の中にある要素を、現状と対立するところを強調するのではなく、逆に共感できる対象、共有できる体験の質、クオリティを強調しようとします。それが「わかる」人を増やし、育てることで、極力、対立をつくらずに、変化を起こそうとするものです。
たとえば、私の知人の大徳郁子さん。食の危機、とくに忙しい家庭で出来合いのもので育つ子供たちや、身体が資本なのにコンビニお弁当でお昼を済ます肉体労働者のことが、気がかりでたまらなかったそうです。でも、嘆いてばかりはいられないと、自宅ガレージで、無農薬野菜の八百屋を四年前に始めました。いま、ここでできることからやる生粋のナウトピアンだっていえます。
ただ、いかにも日本人的で面白いのは、「ここの食べ物は、安心、安全なんて言わないんです、当たり前ですから」というのが彼女の口癖なことです。
もちろん、スーパーに並んでる食の多くが、添加物や農薬漬けなことは確か。でも、そうした危機を訴える啓蒙的な態度の裏には、どうしても、お客さんがそのままでは「無知」で、そのままでは正しいチョイスができないという見下した前提がつきまといます。それに、食習慣のように、プライベートで、愛着や、個人的な記憶が染み込んだことを頭ごなしに「間違ってる」なんて指摘されると、ムッとするし、反発を招いてしまいます。良かれと思ってやることが、逆に事態を紛糾させることになりかねません。
でも、こうした対立姿勢を避けながら、それでも必要な変化を起こすことってできるのでしょうか?
何も言わず、ひたすら、本物の体験へと招待すればいいわけです。
思えば、人間の食の歴史を長いスパンで眺めてみると、無農薬、無添加の、地元で採れた季節のものをいただくって、本来、当たり前。遠くから取り寄せた季節はずれのものだとか、農薬、化学肥料、化石燃料を使って量産された食が出回るなんて、ここ数十年前に始まった異常事態に過ぎません。でも、そんな環境にどっぷり使って暮らしていても、体は、DNAは「当たり前」を覚えています。だからこそ、それに出会えば、「そのまんまの美味しさ」に感動するし、何より体が喜びますだから、正論振りかざして、言葉で説得する必要もない、というわけです。クレイジーな世の中で、しばらく忘れられていたこの「当たり前」を思い出してもらえればいいわけだから。
実際、お客さんに足らないところなんて、何にもない。もしあるとしたら、それは「当たり前」だったことを、「当たり前」として思い出すための一押しになるような、ちょっとした体験、きっかけ。またそこで得られた気づきを、継続的な習慣やライフスタイルに落とし込むためのサポート(例えば近所で手軽な値段でいつでもそれが手に入るとか)にすぎない。彼女の八百屋は、そのための場所だというのです。
だからあえて、ここにあるのは安心安全な野菜だといった「当たり前」のことを、口にしない。それは、とても控えめに見えるけれど、食材に対して、お客さんに対して、揺るがぬ信頼がないとできることじゃない。ある意味とても強気で確信に満ちた姿勢といってもいいかも。好戦的な対立姿勢は一切とらないのに、だからこそ、みんなの生活にじわじわと浸透し、10年後には、本当にそれを「当たり前」にしてしまうような勢いがあると思っています。
そんなふうに、見たい世界のクオリティが「わかる」人を、対立、反発を招きがちな言葉によらず、体験の共有で増やしていく。
本物の野菜の味に慣れると、普通のスーパーのものが食べられなくなるというふうに、この体験が進むにつれ、私たちの身体感覚、感性、知性はじわじわ組み替えられていきます。
つまり、そんななかで、今の私たちの慣行的なやり方、ルールが機能不全に陥っているのに気づく人も増えてくる。
そうすると、もっといいやり方はないか・・・って考え出すし、行動にもあらわすようになることが見込まれます。その中には、パンクやねずみ小僧風の思い切った行動に走る人もぽつぽつ出てくるかもしれません。
そうなると、アメリカのナウトピアと結局同じところに行き着く。ただ彼らがまず人の法と社会の法の矛盾をつく、ポイントを得たヒロイックな行動からはじめるのに対して、私のバージョンでは、最後にくるというふうに、順番が違うだけといってもいいかもしれません。

大徳郁子さんの八百屋Veggi 岩見沢市美園2条5丁目1−18 電話 090 5226 5585 
洋子さんの「時空のやど」の近くにあります。
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# by makikohorita | 2016-09-25 19:32 | ナウトピア 日本版

「いい加減さ」と超感覚的知覚

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超感覚的な世界を把握するというと、仰々しくて、何か大そうで、普通の人には縁遠いことのような響きがある。でも本当は、それは、暖かさと生命の源として、いつもそばにあるもの。とくに、おそれから生きるのをやめて、愛から生きるのを始めると、ぐっと近づいてくる。たとえば、好きで好きでたまらない人の似顔絵を描こうとすると、うまく描けなかった覚えはないかだろうか? 感覚的な知覚を超え始めた兆しだ。それは、おそれから出来た感覚のベールが、あなたの愛で溶かされたから。愛から出来た世界の光が、ほんのすこしでも、そこに差しこんできたから。そうなると、私たちの世界全体は一変して、若々しく、蘇っていく。好きでたまらない人の顔にある「あばたもえくぼ」に見えてきたりして・・・それは「あばた」という感覚的な知覚を、あなたが一瞬、超えられたからに他ならない。あるいは、これまで全然興味のなかった職業や場所が、その人に関係しているというだけで、好きな場所になったりすることもある。愛する人の周りがパラダイスに見えてくる時、その知覚の変容は、あなたの愛が超感覚的な世界の扉を一瞬開けることができたところからきてるって言える。

ただ恋の場合は、その人の感覚的な存在に執着するという反動が普通くる。おかげで、超感覚的な世界の自由を味わえたのもつかの間。「あの人は、今、どうしているかしら」「私の望む通りのあの人でいてくれるかしら」と、不安に駆られるようになると、相手もろとも、自分を窮屈な監獄に閉じ込めることになってしまう。

その罠に落ちずに、相手への所有欲、執着、一切持たず、愛の力で感覚の扉が一瞬開いたところに止まって、世界が一変して、どんどん新たに蘇っていく様子だけを楽しめるようになったら、大したもの。恋愛の極意を知りつくしてると言えるかな。

そこまで成熟していなくても、たまたま好きになった人が、感覚的に執着しようとしてもできない状況にある場合も、知覚の変容だけ楽しめる境地にまで身を高めるためのいいレッスンになる。ヨーロッパ中世の騎士道では、このレッスンのために、最初から、かなわぬ相手に恋心を捧げる風習さえあったという。

私自身も、アーティストのパートナーが、仕事を進めるためにどうしても必要だと言って、仲直りした元奥さんと一緒に仕事をしだすどころか一緒に暮らし始めるなんてハードルをかけられたこともある。普通だったら、関係、それでおしまいになるんだろうな。ただ、私の場合、これを超えたところに何が見えるんだろうという好奇心の方が先立って、相手を完全に手放しながらぶれずに愛し続ける練習の好機と受け止めた。

もちろん紆余曲折あって、スムーズに進んだとは到底言えないけれど、このトンネルをくぐった後、まず気づいたのは、もともといい加減な性格に輪がかかったこと。神経質の正反対で、細かいこと、どうでもいいことが、全く気にならなくなってきた。それどころか、目にも入らなくなってきた。

たとえば、誰かにどんなにイライラさせられても、そのあと、何かのきっかけで、幸福感が上がると、後でその人に「ごめんね」と言われても、「あら、そんなこと、もうどうだっていいの」と口にすることがある。幸福感の方から、その前にあったストレスフルな出来事を振り向いてみると、それはもう溶解して跡形もなく、何でそんなに気になったかも、今はもう忘れてる。その「どうだっていい」感じが常態になっていくのである。だって、一番好きな人さえ、手放せたのだもの。手放せないものは、もうないでしょう。後は、なるがままにまかせ、そこで起こる一切合切が良きことであることを信頼するだけ。私は子育て経験をすることはできなかったけれど、子供を育てて、世に送り出す親たちもみんな、このプロセスをくぐっているんだろうな。

誰かを完全に手放しながら、ぶれずに愛し続けていると、その人にまつわる細かいことが、どんどん、「どうだっていいこと」になり、気にならなくなるし、見えなくなっていく。姿形、行動、輪郭が消えていって、魂の輝きだけがじかに透けて見るという感じかな。と同時に、逆越的なようだけど、一体感をとても強く感じるようになってきた。それが、なんとも言えない安心感を呼ぶ。

その様子は、どことなく、メルヘンの登場人物に似ている。目鼻がちょんちょんと描いてあるだけの素朴な子供の描いた絵のような姿をしてる。懐かしい、いつも心の中に住んでる人のように感じられてくる。


メルヘンには、固有名詞は出てこない。歴史記述のように、「何年、どこの国に、何という名前の人がいました・・・」と言わずに、「昔、昔、あるところに、ある・・・・」と始まる。これも、細かいところは、「どうだっていい」のである。そこに登場するものは、固有名詞どころか、定冠詞“the”もつけられていない、ひたすら不定冠詞“a”を付せられた、どこにでもあるもの。だからこそ、それは、聞いてる「私たち」自身の話になる。

『奇跡のコース』のレッスンを進めるにつれ、人や物に「特別さ」スペシャルネスを見て、それに愛憎を傾ける関係(「特別の関係」と呼ばれる)をすべて手放すようにと言われるようになる。姿かたち、肩書き、所属、特性など、形のある「スペシャル」なものはとかく執着の対象になりやすい。「こうであってほしい」という私の望みや不安の投影からできているので、相手に負担をかけ、その本質を攻撃することにもつながる。また本当の意味で、相手を見ていない、つながっていない。たとえていえば、額縁のみを見て、中身の絵を見ないようなもの・・・ということにもなるから。

ちょっと難解な箇所だけれど、要するに、人やものから固有名詞と定冠詞theを剥ぎ取り、メルヘンの中に出てくるように出逢えばいいわけね・・・と考えると、腑に落ちた。

芸術学をかじったことのある私には、印象派から、抽象表現主義が始まっていく経緯のことも思い起こされた。偉い人、神話の、あるいは歴史上の有名な場面といった何か「特別な」ものを写実的に描くことを良しとされたフランス・アカデミーの風潮。これに反発した人たちが、逆にどこにでもある、どこにでもいる人たちとか、スナップショット風の何気ない光景を描き出して、「テーマがない!」となじられ、落選。そんな落選作品を集めた展覧会が母体になって、印象派が生まれたこと。その中でも先鋭的な人たちは、「特別な」ものへのこだわり、権威付け、執着こそ、ものを「決めつけ」、知覚を固定させ、「このようにしか見えない」不動の輪郭の下に閉じ込めてた要因だったことに気づいて行ったこと。「特別なもの」を負うことをやめた目は、ものの輪郭を超えて、光の横溢を捉え始め、そうして描かれたモネの積み藁の絵が、カンディンスキーにインスピレーションを与え、抽象表現主義が始まった。そういえば、初期カンディンスキーは、よくメルヘンの一場面と思わせる絵を描いてたっけ・・・

「昔、昔、あるところに・・・」と始まるメルヘンの物語は、特定の時と場所に縛りつけられることをまぬがれた分、浮遊して漂い始め、私たちの心の奥へすっと、摩擦もなく溶けこんでいく。そして胸が痛むほどの懐かしさと、何か驚異的なことが今にも起きそうな、ワクワク、ドキドキした気分で私たちを満たす。メルヘン特有のこの不思議な雰囲気、香気はどこからくるんだろう? そこに出てくる人や物や動物たちが、私自身でもありながら、同時に意識できる私にとっては未知の底知れぬ深みから来ているところから来るんだろうか? まだ特定の時空、特定の名前に縛り付けられる以前、みんな一体になって、極彩色に輝く生命の海に広がっている、そんな深みから・・・

すべての人を愛しながら、同時に、手放せるようになった時、みんな多かれ少なかれ、そんな不思議な一体感とともに出会えるようになってくるのかもしれない。

そんな私にとって、超感覚的な知覚は、生活の中で、身近に生きられるものだ。とてもとても愛しているから、幸福だから、それまで依存していたもの、執着していたものが、「どうでもよかった」ものだってわかり、一つ一つ喜んで手放していく。そのたびに身軽に、自由になって、それまで気になっていたことが気にならなくなる。と同時に、その「形」、というか、「思い込み」、一面的で固定的な解釈(奇跡のコースによると感覚によるすべての知覚はこの咎をまぬがれない。だから超感覚的知覚が求められる)の影に押し込められてきた生命の輝きが見えてくる。それだけのことだ。


# by makikohorita | 2016-09-13 14:20 | 奇跡のコース

病は気から 健康も気から

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勤め人時代、アレルギーに悩まされていたこともあり、食事療法にかなりはまっていたことがある。確かに食事が整うと、気持ちがいいけれど、でも、行き過ぎると、食事だけにすべてを期待して、健康も心の問題も、みんな解決する・・・なんて思いがち。食べ物を変化させただけで、何かミラクルが起こる・・・みたいな。そこまで行ったら、もう依存症。

私もそこまで行ったのだけど、その時思ったのは、なんだかずいぶん、生き苦しくなってきたぞ・・・ってこと。こだわりの材料を厳選して、お金と手間をいっぱいかけて、気付いたら、時間とエネルギーの大半を食料の準備と吟味に使ってる。また、極端な食習慣をつらぬこうとして、家族に負担をかけたり、人づきあいもなんだか窮屈になってきたぞ。

この不自由さはどこからくるんだろう? 大雑把に、すべてひっくるめて言えば、「心」でなくて、「物」に人生の主導権を与えたことから来てるって思う。「病は気から」という諺にあるように、「気」、「心」(といっても、体や自然と切り離されていない心)が体を整えていく力をちゃんと認めれば、まずはハッピーであることを何より重要視するはず。健康にいい・・・というより、美味しい。「〜主義」を貫くより、家族や友達と、いい関係を保って、楽しく一緒に食事する。

奇跡のコースのヒーリングは、まさに、この「心」に、身体の主導権を戻していく。物が体や心を作るのではなく、心が、体を作ることの再確認。だから、これを食べなさい、これをしなさい・・・といったことは、一切、言わない。

強いて言えば、ハッピー度を高めるものを食べる・・・という感じかな。と言っても、もちろん、どんどん心をエゴから解き放って、純化していくと、変なものは欲しくならなくなるので、結果的には、食事療法している人と似たようなものを食べ始める可能性も大。でも、「食べなきゃいけない」からそれを食べるのと、「食べたいから」食べるのとでは大違い。後者は、心の方に主導権をもたせてる。

それと同時に、私たちの「気」、「心」「思い」が持つ創造性を解き放つってこともやる。

そのためにまずやるべきなのは、物に頼るのをやめること。たとえば、食事療法の代わりにアフォーメーションをやるのは、『奇跡のコース』の方向だ。例えばコーヒーを飲む代わりに、「私は目覚めている」と口にしたり、心で思う方か効果的だって思ったり、美容にいい食材を遠くから大枚叩いて取り寄せるよりも「私は美しい」と鏡の姿に向かって言い聞かせる。そうしたアフォーメーションのアプローチの方に親近感を感じ始めたら、私たちは再び、物ではなくて、マインドに私たちの心身の管理を戻し始めてるってことになる。

私はここのところ、こちらのやり方にはまっている。だってお金かからないし、ほとんど動く必要もなくて、めんどくさくない。何より自分で自分の身体を掌握してるって自信が湧いてくる。食べ物の中にちょっとばかり残ってる有毒物質も、私の元気、幸せが、大丈夫、ハネとばしちゃうから!とゲラゲラ笑っていた方が、「私があれこれ体の調子が良くないのは、食品大企業が少しでも儲けようとして添加してる化学物質のせい」と嘆いて、受け身の無力感にひしがれたり、怒ってばかりいる犠牲者としての私でいるよりもずっと気持ちがいい。

具体的にやっているのは、食べて美味しく、気持ち良いものを、控え目、腹8分に食べるだけ。お腹が空いていないのに、無理に食べない。栄養のことも、最低限くらいにしか考えず、あとは全て心にまかせるというもの。食事療法をしたり、健康食をとっていた時よりもずっと元気になってる。それに何より、自信が湧いてくる。心が持ってる形成力に頼る度合いが増すってことは、自分が、自分の心や体を統御している度合いが増すってことだから。

また同じ理由から、お医者様はもちろん、代替医療的なアプローチをする人、いわゆるヒーラーも含め、人に頼るのもやめた。もちろん、緊急の時をのぞいてだが。お金がかかるだけでなく、いつもその人にお願いできるとは限らないし、何よりそうすることに慣れっこになることで、自分で自分を治す回路を忘れてしまったり、その力が萎えてしまうというロスの方が大きいなって思う。問題があるたびに人に頼って、問題の元に目を向けようとしない、そんな態度で得するのは、医療ビジネスくらい。自分で治す力の方を開発した方が、ずっと理にかなってると思うから。だって、自分の中に自分のことを一番よく知っている専門医がいるのに、外にそれを求めるのも、思えば、ちょっとおかしなことだ。

と言っても、「心の身体形成力」って言っても胡散臭い。鏡に向かってのアフォーメーションも、バカみたいという人も、多いかも。

実際、私も最初はそう思ってた。そう思ってる限り、実際、効果が上がらないので、「ほら見たことか、やっぱり」ってことになる。

そんな風に、懐疑的な人には効果がなくて、信じるもののみ救われるのは、なぜか。奇跡のコースで、マインドと呼ばれるのは、寝ている時も、刻々と創造力を発揮しながら、四六時中、身体を作る形成力と関係してる。心臓を動かし、栄養を体に行き渡らせ、爪や髪を伸ばしたり、痛んだ細胞を修復したり、新しい細胞を作って古いのに置き換える新陳代謝や、血圧、血糖値、ホルモンなどのバランスを整えるホメオスタシス、副交感神経系に寄り添って働くもの。

喜びやポジティブな思いは、こうしたマインドの身体形成力と合流し、これをはかどらせたり補完する。アフォーメーションがきくのも、そのせいだ。このことが、ヒーリングの基盤になる。

ただ、私たちの思いにほんの少しでも「分離」(たとえば、不信や疑いなんてその典型例)が入り込むと、身体の形成力を助けたりできなくなってしまう。だって、「本当にこんなことできるの?」「どうやってやるの?」「そんなことして意味あるの?」などといちいち問いかけていたら、絶えず心臓を動かしたり、ホメオスタシスを維持するために血糖値を上げ下げしたりできなくなって、体はめちゃめちゃになってしまうようなもの。

身体を健やかな状態で統率し、形成・再生するマインドは、ひたすら自分自身を、内発的なパターンに則って、延長していく力。一切の分離を知らない、どこまでもどこまでも一体感に浸されてはじめて、本領を発揮することができる。

この一体感を人間の態度に当てはめれば、信頼感と、感謝。何があっても、どんな時にも、全体としていい方に向かっているという確信、自信。この手の一体感が一番高まるのは、「神」の下にある時だ。「神」という言葉がピンとこなかったら、自然でもなんでも、好きな言葉で呼べばいいと思う。自分より大きくて、自分を生かしてくれている存在。エゴとしての自分が、自分を生かしていると考える人はそんなにいないだろうから。だって、自分のコントロールで、心臓を24時間動かし続けたり、複雑な新陳代謝システムを管理してるなんて言い放つ人なんてそうそういないと思うから。刃向わず、邪魔をせず、信頼しきって、生命力の自然な働きに、身を委ねる・・・

というわけで、『奇跡のコース』のヒーリングは、まず、1. 私の心身すべての統率を(食事や薬や特定の生活習慣など外にあるあらゆるものから引っこ抜いて)自分のマインドに取り戻し、全部そこに集めること。2. そうやって全権を委ねられた自分のマインドを、そのまた源である神にすっかり委ねることからなっている。

これまで、一応、身体の病の話をしてきたけれど、病という言葉を拡張させて、人生における問題すべてに当てはめてもいい。人間関係がうまくいかないのも、お金に困っているのも、すべて、それについての自分がどう思い、考えているか、つまりマインドに発するものと見る。つまり人のせい、世の中のせいにして、それらを責めるのをやめる代わりに、自分のマインドに、その全責任があると見る。犠牲者意識を持つのをやめる、と言ってもいい。

「そんなことしてたら、悪を糾弾し、正すことができなくなってしまうんじゃないか?」などと、抵抗がある人も多いかもしれない。それでも、思考実験としてでも、一度やってみることをお勧めする。とってもスッキリするから。誰かの、何かの犠牲になって苦しんでばかりいる受け身で無力なセルフイメージが一掃されて、自信と力が湧いてくるから。「すべては自分の思いによるもの」ということは、自力でいくらでも立ち上がれるということ。独立宣言だから。

そうやって、自分のマインドの中に、あらゆる問題の全責任を一旦集めてから、そのすべてを、自分の内なる「神」に委ねる。そうすることで、「一体感」モードのスイッチが入って、愛情、信頼、確信、感謝の念から、もう一度問題を捉え直し、作り直す力が湧いてくる。一体感からことに当たった時の創造力は、実際、とどまることを知らない。抵抗がなくなって、オープンな状態になっているので、生命力やインスピレーションが流れ込みやすくなるし、人間関係もスムーズで、協力体制が作りやすくなっているからだ。

翔ぶのが怖い 病の原因***

疑いや不信、自信のなさといった、分離のあらゆる兆しから解放された時、私たちのマインドは、実際、とてつもない力を発揮すると、『奇跡のコース』は述べている。

ではなぜ、こんなにたくさんの人たちが、様々な問題に苦しんでいるのだろう。

ネルソン・マンデラは、大統領就任演説の中で、「私たちがもっともおそれているもの。それは、自分が無力だということではない。自分ははかり知れない力を持っているということだ。私たちがもっとも恐れるもの、それは我々の光であって、闇ではない」と述べた。

これはとても深いところで、真実をついている言葉だと思う。私たち自身のエゴが、私たちの本来の力を恐れて、ストップをかけているのである。なんでもコントロールして見通しがきくものにしようとするエゴは、私たちの可能性、人生そのものも見通しのきく小さな範囲に押し込めてしまおうとする。大きく成長しても、翔ぶのが怖くて、巣の中から出れない鳥のように。

あるいは、人に、物に、食事などに、自分の人生を作る力を預けて、それらに頼り切ることで、自分のマインドの力だけは、発揮しなくていいように仕向ける。

でも、そうやって行き場を失ったマインドの途方もない力は、病的な現れ方をしてでも発現しようとして、私たちを蝕むことになるだろう。デプレッションの多くは、翔ぶのが強くて私たちが自分につけたストッパーのせいで、行き場を失ったエネルギーの鬱屈によるものが多いようだ。

何か悪いことが起こった時に、人のせいにしたいのだけど、責めたい当人は素知らぬ顔、何食わぬ顔をしている。そんな場合には、とにかく注意をひくために、自分を悲劇の主人公に仕立てる必要が出てくる。それで病気になるケースもあるようだ。そうした病気は、愛を求める絶望的な叫びのようなもの。自己破壊をすることで、一種の復讐をしようとしていることになる。私自身にも覚えがあるけれど、あまりに悲しい。

失敗して傷つくのを恐れて、正反対の自己破壊的な方向に走ることで、自分の存在価値を示そうとするのは、エゴがよくやる戦略だ。例えば、親や先生が期待するように良い子になれない。勉強もできない。でも、無力感は味わいたくないので、逆に、自分のできなさ加減をとことん強調したり、こんなにも堕ちることも出来るんだよというネガティブな形で、自分の力を誇示しようとする。いわゆる落ちこぼれや不良になっていくメカニズムだ。

『奇跡のコース』は、人が病気になるプロセスも、同じ論法で説明しようとする。まず最初に、心身を健やかに保つというポジティブな形で創造力を発揮するのを恐れるエゴにとらわれたマインドがある。でも、それだけだと、ただ無力感に苛まれるだけ。それも嫌なので、なんとか全能感を保つために、自分で自分を苦しめて、どこまで耐え抜くことができるとか、自分で自分をどこまで破壊し尽くせるか、自殺する勇気があるかといったネガティブな負荷に耐えぬ子ことで、自己主張する道を選ぶ。その結果が病気として現れるというのである。

それですべての病気が説明できるかどうか、私にはわからない。とりあえず実験として、一切の犠牲者意識、人のせいにする気持ち、人を責め、攻撃したいという気持ちといったあらゆる分離の兆しに、いつも注意を払うように努めている。見つけるやいなや、すぐにそれを「ゆるし」、自分の思い、マインドの方に問題があるとして責任をとる。と同時に、それを一体感の源泉である神にゆだねるってことを、繰り返してる。まだ初めて数ヶ月しかたっていないけれど、調子は上々。特に視力(ど近眼と老眼のコンビネーション)の回復は、目覚しいものがあって、目がよくなってきたので、メガネを変える必要があるかもしれない・・・などという初めての体験をしている。


# by makikohorita | 2016-09-12 17:03 | 奇跡のコース
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人を、社会を動かす文化発信力を鍛えるには? スピリチュアリティ、アート、アクティビズムなどについて、調査、実践してわかったこと、日々思うこと。


by 堀田 真紀子
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