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6. ナウトピアンが発揮する権力について

6 ナウトピアンが発揮する権力について 

 先ほども述べたように、そもそもナウトピアの概念を私は、クリス・カールソンの同名の著作に負っている。私の今回の研究すべてが、2009年の9月に、サンフランシスコのビートゆかりのシティ・ライト書店でこの本を見つけ、興奮のあまり彼にメールを書いて、その後何度も彼の家に押し掛けて議論の相手をしてもらうようになったことにはじまると言っていい。
 ただ、一つ、どうしても彼と私で私の視点が異なるのは、新しい世界を作るこれらの運動をめぐる階級闘争についての考え方である。マルキズムの流れをくむクリスは、結局のところ、ナウトピアの建設を脱資本主義のための闘争過程としてみる。この過程を促進するために、ナウトピアンたちに、資本主義の大量消費社会の見かけ上の総中流化のなかで、今はすっかり失われてしまった階級意識の目覚めの兆しを、期待し、懸命に読み取ろうとしている。あるいは全く新しい階級意識の目覚めをそこに見ようとする。
 これに対して前章で述べたように、チャルカ運動の再来としてナウトピアをとらえる私は、ナウトピアンたちの日々の新しい世界をつくる生活実践そのものが、現行の行き過ぎた資本の支配から独立した生活圏域を築いていく力があると思っている。そしてその積み重ね、文化というかたちでのその成果の共有、蓄積が、先ほど2章で「実践的文化」という言葉のもとに分析したように、社会変革を漸次的に進行させると思っているので、それより他にプラスαの闘争がいるとは思っていないし、ましてやその闘争を革命へと高めるために、彼らに、階級意識を目覚めさせる必要があるとも思っていないのだ。強いて言えば、彼らが世界を作るクリエィティビティを、自己決定、自己組織力を高め、自身の中にのみよって立つ自律性の純度の高いものにふるい分けながらどんどんエンパワーすることが必要だと思っているくらいである。

 私がそのように考える背景には、社会を変える権力を、もっぱら世界をつくる力からとらえようとする視点の転換がある。ナウトピアンもまた、社会を変えるためには、権力を必要とする。しかしその権力は、既存の権力を<とる>ことで得られるのではなく、新しい世界を<つくり>、それを共有し、通用させ、持続可能にすることから得られるものだと考えるのだ。
 といっても、抽象的なので、一つ例をあげてみよう。サンフランシスコ、カストロ街に住み着いたカミングアウトしたゲイの人たちの例である。全米各地で迫害され、ゲイだという自分の姿をひた隠しにしてきた彼らがここに移り住み、カミングアウトしてゲイコミュニティを形成し始めた。といってもこの移住がはじまった70年代には地価が急落、警察も消防署のような公共サービスさえ、場所がカストロ街となると、来てくれないほどのホモ・フォビアぶりだったという。それに対して当人たちは自分たちで警察や消防署を組織してこたえ、また地価が下がらないように、街を美しく整備していく。そして、クロセットから出て、パブリックスペースでゲイであることを公言したときの自己肯定の祝祭感を、街いっぱいに溢れ出させ、 古めかしいヴィクトリアンハウスをパープルや若草色で鮮やかに染め上げ、ドラッグ(異性への仮装)大会やパレードなど盛りだくさんの、毎日が祭りのような魅力的な場所に、この地を変貌させていった。いまやこの地区はサンフランシスコ有数の観光地となり、サンフランシスコといえば、金門橋にビート、ヒッピーの次にゲイというほど、街の名物としての地位を築き上げていった。そこで新たに生まれた世界がそんな風に自ら機能することを示し、人々の欲望を集めるようになる。これほど実績をあげた今の時点で、過去を振り返ると、彼らがこれまで日々こつこつと継続的に発揮してきた世界を作る力は、社会を変えるれっきとした権力だったことを証明するのである。それは自分のありのままを肯定しすることで、愛する力を自分自身に向け、またクリエィティビティを自分たちの自己表現と居場所づくりに当てたという意味で、今の時代のチャルカ運動の典型例となっている。ゲイに限らず、マイノリティや被抑圧者が、自分たちの文化、スタイルを醸成し、自分の世界を作りあげるうちに、逆に尊厳あふれる主体として人々の欲望を集める存在になるという権力関係の逆転がよくみられる。これらすべては、人々が尊厳をとりもどし、自分たちの世界を作り出すことそのもののうちに、社会を変える権力がすでに含まれていることをあらわしている。
 カストロのゲイのようにドラマチックな結果はなかなか生み出せないにしても、ナウトピアンたちを、社会変革に必要な権力を、既存の権力を<とる>ことにではなく、新しい世界を<つくる>ことからくみ上げる人として、定義したいと思うのだ。それが、私が、階級闘争的な切り口で、ナウトピアンたちを分析したくない、もう一つの理由である。なぜなら、階級闘争は、権力を<つくる>ものとしてではなく、<とる>ものとして、前提するからだ。

 このような私の立場は、ジョン・ホロウェイが『権力をとらずに世界を変える』のなかで切り開いた地平上にある。
 ホロウェイは、権力を外圧的な「させる力 power- over」と、内発的な「なす力 power to do」という二種類に分け、「なす力」の称揚のみが、これまであらゆる闘争がおちいってきたジレンマからの脱出路であると同時に、資本主義を根本から克服する力になるのだと主張した。
 彼が資本主義にみるのは、私たちの「なす力」を「させる力」へことごとく屈服させ吸収することで、萎えさせてしまうシステムである。というのも、利潤をあげねばならない、採算を合わせなければならないといったお金をめぐる強制としての「させる力」の勢いがすさまじく、その下に、私たちのあらゆる夢も理想も妥協、譲歩、屈服をせまられるのが今の世の常だからである。この構造は経済以外の領域にも浸透し、たとえば教育は、将来効率よく働き、利潤をあげ、経済に貢献する有用な人材をつくるための投資としての性質が濃く、子供たちはこの投資の見返りが将来どれだけ見こめるかに従って、序列化され選別のふるいにかけられる。パウロ・フレイレはこれを「銀行型教育」と呼んだ。こうしたシステムの中では、「なす力」は育ちようがない。
 「させる力」によってではなく、「なす力」から生きること——この転換を一人でも多くの人が、成し遂げることこそ、資本がすべてを統べる今のような状況下で、権力をとらずに世界を変える、つまり先ほど述べたような主体的に担われた実践とその文化的蓄積による、チャルカ運動的な社会変革を成し遂げる唯一の道である。
by makikohorita | 2013-09-22 17:57
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