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7. 「自分の頭で考えない」ことが巨悪をもたらす!

 つながりのパラダイムから見られた「敵」は、批判や教え諭す対象というよりも、自分たちと本質的には変わらない存在である。権力闘争、経済至上主義にかまけて視野狭窄になったり、組織の力学の下に個人的な判断が押し殺され、無批判な上意下達が行われる中で、広く社会や環境にとっては必要でないどころか害になるようなことを生み出しかねないのは、私たち自身のことでもあり得るのだから。たとえば組織の力学の下に個人的な判断が押し殺されるような事態は、たとえば、脱原発運動そのものの中にさえ、忍びこむ可能性がある。とくに、悪いのは「彼ら」であり、「私たち」はそれを正す側にいる・・というふうに、特定の人や集団、組織にばかり対立項を見ていると、自己批判が萎えてしまうせいで、油断すると、てきめんに自身がこうした、「思考や行動の癖」としてあらわれる悪の体現者になりかねないのが現状だ。そういう自己批判的な観点が持てるようになるだけでも、「彼ら」と「自分たち」の間の共通点、すなわちつながりの認識は、重要だと思う。
 この点参照できるのは、ハンナ・アーレントのアイヒマン論である。アウシュビッツの大量殺戮の責任者であるアイヒマンが逃亡先の南米で見つかり、逮捕され、イスラエルに連れてこられて裁判されたときのこと。この不条理な大量殺戮機構に、愛する近親者を殺された人たちは、裁判を息をのみながら見ていた。しかし裁判中、さまざまな質問に対してアイヒマンが答えるにつれ、だんだん明らかにされていったのは、そこにいるのは、それこそ「個人としてどう思うか」を一言も言えず、そのときの組織の事情の細かな説明ばかりに始終する官僚的な人物にすぎないこと。これについてニューヨークタイムズに記事を書くことになったハンナ・アーレントは、アイヒマンはただ組織の要請に対して批判性抜きに追従する、「どこにでもいる凡庸な男」にすぎないと診断。そうした凡庸さが悪に転じる社会のあり方について分析を繰り広げた。6 それによって、一個人としての彼を極悪人として断罪しようと息巻いていた、ユダヤ人の間で総スカンをくらうことになった。「どこにでもいる凡庸な男」という言葉の裏に、ユダヤ人の間にさえ、アイヒマンはいるという含意があることに鋭い人は気づかずにいられなかったし、それによって、ナチスとユダヤ人の間の<加害者—犠牲者>の図式が壊れていくことに、多くのイスラエルの人たちは、耐えられなかったのである。ただ、もしこの指摘をもう少し多くの人が真剣にとれば、パレスチナ問題のその後の状況も変わったかもしれない。
 一見犠牲者の中にさえ、加害者の影がある。もちろんこれは、過酷なことだが、暴力が内面化され、思考や行動の癖、パターンとして、あらゆる人の中に沁みこみ、批判性を発揮しないと、本人にさえ無自覚になってしまう今の時代の現実なのである。悪いのはナチスであり、ユダヤ人は犠牲者・・という風に、特定の人や集団、組織にばかり対立項を見ていると、特定のアクターを超えて、思考や行動の癖、パターンとしてどこにでも現れ得る「凡庸な」悪を見逃してしまうことになる。それをいつのまにか自分が体現していても、そのまま野放しにされてしまう。こうして、たとえ「悪」の原因と思われる人や組織を、分離のパラダイムによって徹底的に除去することができたとしても、同じパターンの問題が役者だけを変えて、繰り返されることになる。
 これまで、つながりのパラダイムを適用して、全員が責任者でありまた犠牲者でもあると考えた方が、必要な新しい世界をつくるのは都合がいいことを、さまざまな角度から述べて来た。が、ここで、もっと根本的な理由が明らかになる。批判すべき「悪」は、特定の人の専売特許なのではないからだ。それは、完全に白、犠牲者としか見えない人も含め、自己批判をおこたるや、たちまち、あらゆる人が体現し得る思考や行動のパターンなのである。ここから、セクトや陣営に分かれてあらそう政治は、この見地から見ると、役に立たないことがわかる。
by makikohorita | 2014-09-09 09:35 | ナウトピア 日本版
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