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草の根文化の苗床

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1. 記憶の旅ーー生きたもので生きたものをつくる

1. 記憶の旅ーー生きたもので生きたものをつくる_a0301410_2148981.jpg
私は両親とも南の福岡出身。ロシア人の血が混ざってる可能性はまずない。にもかかわらず、『アナスタシア』にはじまる『響き渡るシベリア杉の木』シリーズは、読めば読むほど、DNAに描きこまれた記憶の古巣を覗き込んでいるような不思議な気持ちがしてくる。多分人類共通の記憶に触れているのだろう。

たとえば・・・
彼女の動物たちとの深いつながり。松の実の皮を剥いたものを口に運んでくれるリスに優しい声をかけながら触れると、リスはしばらく恍惚状態で、電気に打たれたようにしばらくじっとしている。
個人的な関係を育みながら、愛情深く育てられた植物は、その人に必要なエネルギーを天空と大地から集めることで、お返しをすること。
彼女がその末裔として、その文化の多くを継承しているという古代の民族、ヴェーディアンの人たちは、着る人が不運から守られるように、服に刺繍をほどこす方法を知っていたこと。
そもそも、まわりの空間に愛を放射するような生活を送り、
一挙一動に、触れるすべてのものに愛を注ぎこむことで、
そこにいる人が庇護されていると感じ、
本領を発揮できる場所をつくることができる。
それが本当のふるさとであり、家。
そんな場所をつくるのに必要なのは、愛情だけで、人工的なものは、本当に、何もいらないこと・・・

そういう話が満載されたこれらの本を読み進むにつれ、「そんな生活、私、知ってる!」と思うのだけど、どうしてそう思うのか、いつの記憶なのか、わからない。わかるのは、それがとってもなつかしい、でも遠い日のことだってことだけだ。

生きたもので生きたものをつくる***
そうした話の一つ一つは、もちろん、とても非合理的に見える。
それも、もっともな理由があってこそ。

死んだものを相手にした時ならば、私たちはいくらでも合理的になれる。
実際現代の人間は、どんなに生きたものも、分析し、分解し、あらかじめ殺してから、組み立てようとする。

実際、主人公のアナスタシアに言わせると、現代の人間の創造性のほとんどは、そうした、死んだものを材料にしたものづくりに当てられているという。

でも、そうやって、どんなに完璧で「合理的な」人工の世界をつくりあげても、それで、生きたものをつくりだすことは、できない。

生き物の身体を、部分部分に分解したあと、どんなに完璧に正しく組み合わせ、縫合しても、死んだ生き物は、息は吹き返すことができないのと同じことだ。

だから、私たちのつくった人工物(機械がその代表例)には、
生きているものにだったらどんなものにも必ずある再生力や自浄力、内発的なエネルギー源が欠けている。
だから、メンテナンスが大変。
古び、朽ちていくものを維持するのに途方もないエネルギーやリソース、労力を傾けなきゃいけない。
すべての環境破壊や汚染のおおもとは、私たちが死んだものを材料にした創造しか行わなくなったことにあると、考えられる。
つまり、合理的に見えて非合理的。先端的に見えて原始的。

じゃあどうして、生きたもので生きたものをつくらないの? というのがアナスタシアの提案だ。
それが、冒頭で述べた、動植物との奉仕的な関係を育んだり、人の力を引き出し、庇護する環境、芸術作品やすみかをつくることにあたる。

なんだか途方もない気がするけれど、
生きたもので生きたものをつくる実践のはしりは、私たちの世界にも、すでにたくさんある。
庭づくりや、農業、育児、教育、治療など。人やものを生かし、育むあらゆる仕事。

それらの仕事の達人は、
皆、愛が、人やものを生かし、育むうえで、重要だってことを直感的に知ってる。

しかも、この愛のエネルギーは、自然や星々の力(私たち自身のご先祖様が「気」と呼んだもの)と関わることで、
そこからどんどん栄養を汲み取り、昂まっていくことができる。

それは次第に、生き物のように自律して息づきはじめ、
それに触れた人の夢をかきたて、
私たちを創造や実践、治療へ向かわせる。

これに対して、相手を分析すること、診断すること、ジャッジすることは、この創造のプロセスの流れ、勢いを殺してしまうことも。

とはいっても、それは、は知的活動を放棄することではなくて、
別の形でとても「知的」になることでもある。

この種の知識獲得は、たとえば、一目惚れのような形で起こると、シチェテイーニン先生(アナスタシアが推薦したロシアの教育者)はいう。
初対面の人に一目惚れする人は、相手にこれまで会ったことがないにもかかわらず、話をしたこともないにもかかわらず、強烈に惹きつけられる。
まなざしやたたずまいから、相手のすべてを何となく知ってる、理解してると思うから。

ほかにもたとえば、
必死で誰かを助けたいと思うときに、
何をすればいいのか、ふとアイデアが湧いてきて、
それが、自分の知らないその場の状況にも、ぴったり適した
ベスト・ソリューションだったってことがわかり、
なぜ、こんなこと思いついたんだろう? と後で不思議に思う時など・・・

アナスタシアによると、私たちの中には、全宇宙の構造、あらゆる知識が織り込まれていて、
それは、愛や、生きたもの、ポジティブなものを創造したいという熱意が昂まった瞬間、目覚めてくる。
そして、思考の論理的な帰結というより、
自然に浮かぶインスピレーション、直感的なアイデアとして、
私たちに降り注ぐ。

といっても、これらの情報は、自分とは切り離されたものや人を傍観的に分析したり、好奇心からただ解き明かしたいと思う時にはアクセス不可能。

人やものを助けたい、育てたい、生きたものを創造したいと切実に思い、
全力で、その実践をしている最中にふと目覚めさせられるもの。

だから、シチュティーニンの学校では、知識のための知識は教えず、
ものをつくるプロセスの中で、必要な知識を学ぶかたちをとるという。

しかも、何も知らない子供達に、新たな知識を学ばせるといったスタンスではなく、

本来、すべて知っている子供たちに、自分が既に知っていることを、「思い出し」てもらう。
自分の中にすでにある知識の源泉と「つながる」ことができるようにする
というかたちをとる。

そのために必要なのは、ガリ勉ではなく、
相互信頼、協調、愛情、助けたい、奉仕したいと思う気持ち・・・

生きたものから生きたものをつくるプロセスは智慧の源泉でもある。
by makikohorita | 2015-03-25 21:48 | アナスタシア
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