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草の根文化の苗床

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4. つながりの感覚をとりもどす

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 しあわせを「感じる」という一点をつかんで離さないことで、からだは健やかになり、人生からあらゆる無駄な骨折りや、迂回がなくなり、とてもシンプルで明快になる。

  とはいえ、別段理由もないのに、しあわせを「感じ」続けるのは至難の技。そもそも、現にちっとも自分がしあわせだと感じられないときに、いきなり、さあ、しあわせを感じてみなさいと言われても困る・・・という人がほとんどだろう。
 そんな時に支えになるのが、幸福がどんな方向にみつかるか、アイデアをいくつか握っていること。それについて考えるのが、ちょっとした糸口をあたえてくれるかもしれない。

  ネット上で今も無料配布されることで、影響力をじわじわ広げている『聖なる経済学』を書いたエイゼンシュタインは、現代社会の問題のほとんどは、分離の前提から生き始めるとともにはじまったという。とくにお金のシステムは分離の前提を先鋭化させ、構造化させ、社会制度全体、人生設計全体が分離の前提に立たないと、成り立たなくなるほどにしてしまった。そこから、命よりもお金、持続可能性やシステム全体の良好状態よりも、いまここの快適さが大事だという姿勢もでてくる。見えないところで自然や人々が苦しみ、殺されていくのにも目をつぶれるのも、この分離が前提になってるから。その積み重ねとして、拡大し続ける貧富の格差や自然やコミュニティの破壊も野放しにもされてきた。

  しかし、私たちがどんなに一人で生きていけているとおごり高ぶっても、生き物として生き続けている限り、自分の生命が、他のものとの関係の中ではじめて維持されているのは、れっきとした事実。そのことを思い出すには、誰でも一度は赤ちゃんだったことを思い出すだけで十分だとエイゼンシュタインは言う。赤ちゃんはほうっておくと死んでしまう無力な存在。世話をしてもらうために、代金を出して誰かを雇うことも,少なくとも自分では、できない。
  
  できることといえば、やっと生まれた、愛らしい存在、祝福そのものとしてとにかくそこにいることだけ。でも、まさにそれだけの理由で、よろこんで受け入れ、無償で世話をしてくれる人たちがいた。そのおかげで、誰しも、今、現に生きている。

  何にもできなくても、ただ存在しているというだけで、受け入れられ、愛され、養ってもらえるというこの感覚は、子供の頃、守られ、幸せだった記憶をたどると、ありあと蘇り、感謝の気持ちで身体も心も芯からあたためてくれる。無条件の愛情、をゆたかに浴びせられ、他のものとのつながりの中で生きる安心感を、私たちは皆、記憶の古層のうちに持っている。

  他人は助け手というより競争相手、なにごとも自己責任。自分の面倒は自分でみなきゃいけないとするとことん分離の前提からなる寒々とした世に出ても、この記憶、つながりの感覚さえよびおこせれば、そこから、暖かな島を一時的なりとも作り出すことができるし、自分自身や人を傷つけるようなことは、おのずとできなくなるのでは、と思う。

  不幸な生い立ち、心の傷によるブロックなどが立ちはだかり、幼児期のこの庇護感がよみがえらなくても、その他人生のいろいろな側面が、このつながりの感覚を思い出させてくれる。たとえば、病気のあと、自然治癒的に、健康が徐々に回復していくプロセス。そこでは、自分の身体が、自分をとりまく自然、環境、人々の気遣いや愛情から少しずつエネルギーをもらうことではじめて、健康体が維持されるのに、あらためて気づかされる。

  そもそも私たちの身体は、新陳代謝、呼吸をはじめ、環境との間のつながりの中ではじめて生き続けることができる。そもそも、他の生命を「いただく」ことによって生かされているわけだから。
 この事実は、どんなに私たちの意識的な生活が、私たちを孤立した存在とみる分離の前提で成り立っていても、不変だ。だからこそ、不自然だらけの生活を送り始めると、まずは。身体が悲鳴をあげる。また、身体に直接関わる本能的な部分とかかわる場面では、つながりの感覚がよみがえる可能性が高いのもそのせいかもしれない。たとえば、どんなに美味しいはずのものも、人からそれを奪い、傍らでその人がうらめしそうにしているそばで食べてもちっとも美味しくないといったかたちで、日常的にも体験されることだ。あるいは、誰か知らない人が溺れたり、線路に落ちたりするのにいあわせて、その人を助けようと、思わず知らず自分の命の危険も顧みずにとびこんで助ける人としての話は、つきない。が、相手をまったく選ばないこの無条件さも、頭で判断するというより身体的な反応。あらゆるセンチメンタルな感傷や理想主義以前にある、生きとし生けるものをつらぬく動物的なつながりの感覚によるものだ。
 
  つながりの感覚はこんな具合に、現実を一皮むいたところにあらわれる、一切が一つになる層をあらわにする。そこでは、敵味方、身内他人、害虫益虫の区別も無くなり、より大きな視野の下、すべて宇宙の不可欠な一部をなすと同時に、センチメンタルな感傷抜きにして、肌の境界よりも私に近く親しい、そありがたい存在になる。

  敵―味方、益―害といった善悪二分法は、私たちの発想や感受性に深くしみ込むこんでいる。しかし生態系はその相互作用の複雑さから、害虫だと思っていた青虫が、人間が食べると危険な蓚酸たっぷりの野菜の掃除をしてくれていた・・・というふうに、視野がひろがり、ものがよく見えるにつれ、両者をつねにどんでん返しにもたらし、この二元論をくじき、私たちを謙虚にしてくれる。

  善悪二分法を超えた農業は、すでにそこに生きてる生命のゆたかさを大切にして、多様な生命がどんどん畑に満ちえたる状態をつくることで、土壌を肥やしていく自然農法のかたちをとるだろう。

この非二元論的な理想を、人間社会の中で実現しようとするのが、直接参加民主主義が実現される西洋の広場。そこでは、私たち共通の関心事について、あらゆる人が自分の意見をいい、活動しながら、社会変革に参加することがゆるされる。西洋のこのすぐれたパブリックスペースの理想を、生態系の包摂性や自律性をつなげようとして、私は森のそばに家を買って、森のひろばというスペースを立ち上げた。
by makikohorita | 2015-04-08 22:00 | アナスタシア
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人を、社会を動かす文化発信力を鍛えるには? スピリチュアリティ、アート、アクティビズムなどについて、調査、実践してわかったこと、日々思うこと。


by 堀田 真紀子
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