
大井さんが絵を描いたり、庭仕事したり、猫の世話をしたりして暮らす由仁芸術実験農場は、馬追丘陵の麓にある3千坪ほどの耕作放棄地に立っている。山の斜面にじかに接する土地は、柳や松の木がぼつぼつ自生し始め、ゆっくりと森に戻っていくところ。彼はそのプロセスに逆らわず、空いた場所に台所から出たコンポストを置き、微生物やミミズ、虫たちを招きながらも、基本的には自然栽培。余計なことは何もせず、空いた場所に、いろんな植物を植えている。うまくいく育つとは限らないけれど、それも自然の采配、気にしない。植えたことすら忘れたころにヒマワリやデイジーや芥子などの花々が突然咲き乱れたり、イチゴやラズベリーがたわわに実ったりする。ライ麦畑が広がったこともあった。収穫のタイミングは逃してしまったけれど、風に揺れる穂が織りなす南国のビーチのようなエメラルドグリーンの波をたっぷり堪能できただけでご満悦のよう。胃袋よりも目に心地いいことが肝心なのだ。庭にはおびただしい小鳥たちのほか、リスや狐、兎、鹿も庭にときどき顔をみせる。植えたものを荒らしても、気にするようすもなく、かえっておどかさないよう気遣いながら、暮らしてる。
その様子は、彼の絵の中で日々起こってることにとても似ている。日々の出来事や出会いの一つ一つに、ゆったり、丁寧に向き合って暮らす。するとそれらの断片は、まるでエコシステムのような繊細な相互作用をはじめ、静謐感やみずみずしい生気に満ちた調和の感覚を、生活のすみずみに次第に染みわたらせていく。そうやって状況をととのえ、あらゆる手はつくして、機が熟するのを待つ・・・すると、コンポストを仕込んで熟成した土に、微生物やミミズや虫たちが、突如わらわらと湧いてくるように、生活というこの土壌から、さまざまなイメージが立ち上り、ひしめきはじめる。彼はそれに驚き、喜び、歓待しながらも、基本的には何もせず、それらが生い育っていくままにゆだねる。生活の細部、記憶や夢のかけらから発するそれらのイメージの一つ一つは、特別に選ばれたものというよりも、ランダムに息づき、立ち現れては消えていくさまを、傍に立ち、記録にしたためたにすぎぬように見える。アートワールドの流行や権力が突きつける要請に媚び、ことさら取捨選択されたり、印象的な構図にまとめられた痕跡もない。

イメージが生命力を失って、萎えしぼんでくるとき抗わず、ただ壁にかけて放って置く。実際、彼のスタジオには、そんな絵もたくさん壁にかけてある。しかしそこで一緒に生活するうちに、絵どうしが勝手にエコシステムをつくって相互作用し始め、また、ふたたび息を吹き返し、絵に育っていくこともあるのだという。このコントロールの放棄はしかし、コミットメントの欠如や距離感を表すどころか、その正反対。イメージそのものを彼が生きていることを表している。だからこそ、『BLESSING 賜物』制作エピソードに見られるように、死んだイメージを消し葬るつもりで落とした絵の具から、期せずして、新たなイメージが立ち上ってきたという、その死と再生のプロセスを彼は祈るように見守り、心から祝ったのだろう。
私ときたら、世界救済の書を言葉で綴りながら、現実をコントロールしようとする無謀な企てを止められずにいる。でも、本当に世界を救うには逆に世界を手放さなければならないことは、彼から学んだと思っている。


世界救済の書