無にたち戻る undo のすすめ

そんな時思い出すのは、わたしたちは普段「ものそのものを見ているわけではない」ということ。
たとえば、生まれて初めて、ある部屋に入るとしましょう。そこに家族写真らしい写真が飾ってある。そこに写ってる人に、知り合いはいない。だから先入観など入ることはないはずなのに、家族とこれまで、どんなことがあったかによって、人によってそれぞれ違う反応をすることになるでしょう。そこに写真があるのに気づきもしない人もいる反面、ノスタルジックな気分に浸ったり、切なさがこみあげてきたりする人もいるかもしれません。ようするに、わたしたちはものそのものを見るというより、記憶の集積をそこに見ているっていえます。
その記憶の多くは無意識なので、たまたまネガティブな記憶がたくさんたまっているところを刺激されたりすると、わけもなく気分がすぐれなくて、コントロール不可能・・・なんてことになりますよね。
でもそれってすべて、あくまでわたしたちの記憶。わたしたちが勝手にもののまわりに雲のようにもくもく覆いをかけているだけで、物自体(たとえば写真)が悪いわけではない。それに、呼び出したのが自分なら、退散させることもできるはず。
精神分析などだと、このとき暗雲のように視界をおおう記憶を、一つ一つ意識化して洗い出していくのでしょう。ただ、私は面倒なことが苦手。古い記憶にかかずらううちに、つきまとって離れなくなるのも怖いので、できれば一瞬で、ぜーんぶ手放して、きれいさっぱりお別れしたいって思うわけです。
というわけで、私のやり方は、「えいっ」と現実すべてから、身をもぎはなして脱皮すること。刀をふりかざし、自分とまわりの世界の知覚の接触面をえいっと切り離していく様子をイメージするのですが、さっさっと切り離すたびに、スカッとして、元気が出てきます。
といってもこれを自力でやろうとする限り、ここで刀を振りかざしているのも古い自分(お別れしたい現実の一部)に過ぎないというパラドックスがつきまとうのも確か。しかもそんなふうに、頑張る私、コントロールしようとする私は「エゴ」のなので、ヒロイックな高揚感は味わせてくれはしても、一時的なものだって思う。自分を特別視して、他を見下すような孤立の世界へ誘っていくおそれがある。と、またエネルギーが枯渇して、同じような憂鬱の雲がそのうち立ち込めてくるのは避けられないかもしれない。
だから、本気で現実を新しくするには、祈ったほうがいい。毘沙門天や大天使ミカエルなど、大きな刀をたずさえた宗教的なイメージ、原型に向かって、「今の現実の一切合財から、私を切り離してください。今自分が感じていること、巻き込まれているドラマから、私を切り離してください」とひたすら祈って、私自身は、コントロール放棄することで、小さなエゴさんから脱皮。ひたすら「おまかせ」して脱力しつくす。すると、大きな光の剣が、身体のまわりで振りかざされ、エーテルコードのしがらみの糸がどんどん切られていくのが感じられて、文字通り、雲が晴れたように視界が明るくなり、身体も軽くなっていく。
そのあとにあるのは、ひたすら感謝や愛が、身体の中からふつふつ湧いてくるような一体感。自力で頑張って、現実から身をもぎはなした時のようなヒロイックな征服感や、私は低次の世界から解き放たれたよといったエリート意識とか、ようするにエゴ特有の高慢な気分はそこにはない。
その代わり、怖い夢から目覚めて、ぽかぽか暖かくて、明るくて、安心できる世界をしっかり抱きしめてる。みんなと一緒に抱きしめて、つながりを再確認してる、そんな気分。それはわたしたちのホーム、ふるさと。もともと私たちがそこから生まれてきたところ、わたしたちの心身をまとめあげ、生き生きした状態に保ってくれる形成力として、いつもいつもそこにある。
これこそ、愛のエネルギーの源泉であると同時に、私たち自身の源泉。
それを「神」と呼ぶ人も多いけれど、この言葉で(それこそ「記憶」の暗雲がたちこめてきて)仰々しい気分になったり、おそろしくなる人がいるならば、別にその言葉にこだわらなくてもいいって思ってる。
寝てる時にもずっと進行中の新陳代謝をはじめ、「おまかせ」したままでもいつも進行中の生命のいとなみは、ちっぽけなエゴとしての「私」が逆立ちしても真似できるような代物ではない。ずっと心臓を動かし続けたり、消化器官を働かせたりなんて、意識してできるものではない。そんな生命全体をささえる「わたし」が、エゴとしての「私」をはるかに超えて、どの瞬間もささえてくれるおかげで、今現に自分が生きているってことは、どんなに懐疑的な人にとっても、うたがいようのないはず。またそうした生命のいとなみが、他のすべての生命と一体となり、支えあってこそ成立していることも、事実。「神」という言葉は、そんな生命のいとなみ全体をささえる「わたし」をさす言葉の一つといっていいでしょう。
そうした「わたし」に立ち戻ることで、私たちは癒され、自分を取り戻し、生き物が自分の体や巣を本能でつくりあげるような確かさと美しさ、自然さで、日々のいとなみ、天職としての仕事もつくりあげていくことができる。
ここから迷い出て、私たちはいろんなドラマやしがらみに引きずり込まれるわけですが、そのどの瞬間にも、決意次第で、そのすべてを今述べたようなやり方で帳消しにして、もと来た道をたどり直せる。それが、無へ立ち戻る、すべてを無かったことにする、undoです。
その道のりは、エゴとしての「私」を脱ぎ捨てることとパラレルに進む限り、コントロールを放棄して、ぐったり脱力、「おまかせ」するのは欠かせません。そうして「おまかせ」されたものを引き受け、生命の源泉につれていく橋渡し役として、天使をはじめとした人格のある自律した原型的な存在のことが古今東西、イメージゆたかに語り継がれてきている。それを利用しない手はありません!
by makikohorita
| 2016-07-18 19:08
| 新しい世界をつくる!