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草の根文化の苗床

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満ち足りたところから、働く!

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不安や欠如感を埋め合わせるために、私たちはあらゆることをします。生きるためには頑張ってお金を得なければならない、愛されるためには努力して、素敵な人にならなきゃいけない。頼りにしている人に見捨てられないため、その人の好みのタイプにならなければならない、生活の安全のためには、安定した職につき、マイホームを購入しなければない、などなど。でも、そうした発想の根底にあるのは、いま、ここにある、ありのままの私ではダメだっていう自己否定。「ありのままの自分ではダメ」とあらゆる瞬間に自分に言い続けてるわけですから、その人が輝く日はいつまでたっても来ません。

「今」に生きることを飛び越えて、「未来」の心配ばかりしてる、といってもいい。そしてその心配の内容はといえば、過去の経験にもとづくものばかり。未来には何があるかわからないのに。そこで何かあたらしい、解放的な体験をするには、過去のことは忘れて、コントロールを手放した方がいいのに。

何事も我慢が肝心。そうすれば、いつか花が咲くのだから。好きなことして生きていけるなんて、わがまま言っちゃいられないと、私たち日本人の多くは信じこんで、滅私奉公。がむしゃらに働いてきました。しあわせに生きることより、そのための準備にかまけたり、そのための条件を整えるのに奔走して、一生終わってしまう。あるいは、そのうちに麻痺してきて、しあわせがなんだったかも忘れてしまい、みすぼらしいその代用品に大枚をはたいて満足する始末。

それは、せっかくパラダイスのような絶景が広がる場所を訪れながら、まわりを見てそれを味わう暇もなく、次に行く場所のことのこととか、お土産、すべて忘れずに買っただろうかとか、バスに乗り遅れないだろうか・・などと、心配ばかりしてる旅行者のようなもの。きょろきょろ、そわそわ落ち着かず、今、ここにくつろぐことができない。焦燥感や不安でいつも心を満タンにする苦労性が板について離れなくしまってるから。絶景は、「今、ここ」にしかないのに! そもそも、そのための旅、そのための人生だったはずなのに!

しあわせは、「今、ここ」にどっぷりくつろぎながら、まわりのものとのつながりをたしかめ、しずかでうつくしい調和をしっとり漲らせていく。その様子をしみじみ味わうことで、じわじわ感じられるもの。決して難しいことではなくて、とても自然なことでもある。やることといえば、深呼吸して、力を抜いて、「今」の中にすっと身をあずければいいだけなのだから。決意次第で、いつでも、どこでも、どの瞬間の「今」でも、手にいれることができる。別に絶景地にいかなくても、騒音のただ中でも、散らかった家の片隅でも、大丈夫。何にも心配する必要はないんだよ、うんと自分を甘やかせて、瞬間の感覚に身をまかせていいんだ・・とゆるすことさえできれば、どんな混乱の中にも、調和が感じられてきて、「わが家」のようにくつろぎ、安んじて棲みつけるようになる。そうすれば、しめたもの。しあわせ感がじわじわみなぎってくるのは、時間の問題です。

といっても、この話は、本人のしあわせだけの問題ではありません。

先ほど、私たちが、まわりのものと本当の意味でつながれるのは、「今、ここ」にじっくり沈潜するときだと述べました。

私が真に満ちたりて、「今、ここ」でくつろいでいるとき、感覚は身体の境界を越えてふわっと広がり、周りのものとつながる膨張性を帯びはじめます。

それこそ、しあわせ感の源泉ですが、そこには、そうやってつながったすべての人や生き物たちのことを、我が身のように感じながら、彼らもしあわせであることが、自分のしあわせの不可欠の前提としてふくまれています。つまり他者のいたみはわたしの痛み。私のしあわせの中には、まわりのみんなのしあわせ、地球のしあわせが前提としてふくまれてる。「世界のすべての人がしあわせにならない限り、個人のしあわせはあり得ない」という宮沢賢治の言葉は、今なおもって真実。この種のしあわせだけを追っかける人が増えたら、世の中、速やかに、本当に良くなるんじゃやないかって言える。

これを阻害するのが、「欲しがりません、勝つまでは」と、がんばることなのですよね。まわりのものとつながれる唯一の通路である「今、ここ」に蓋をして、過去や未来にばかりかまけて、焦ったり、心配して、あくせくしてる人は、つながり、共感したり、気づく能力を失って、ひとりよがりな思いこみの世界に生きることになりがちです。

実際、この手のタイプは、不安でじっとしていられないので、たいへんな働き者。いろんなものを作るし、企てます。

でも、人や自然や、すべての生きとし生けるものとつながる唯一のチャンネルである「今、ここ」にちゃんと腰をすえていることができないので、視野狭窄で、ひとりよがり。せいぜい、自分と同類の人たちとか人間のことしか考えることしかできません。まして地球の他の生き物と共感することはむずかしい。だから、地球全体から見ると有害なものをつくる可能性の方がずっと高くなります。

つまり、自分のやりたいことを押し殺し、否定、麻痺させて、滅私奉公する企業戦士たちは、当人がしあわせになれないだけでなく、周りのものもまきぞえにしてしまうのです。かくして、平気で環境を破壊したり、子供達の未来を奪ったりする仕事を平気で、延々と続けることもできるようになります。

たとえそこで、最新テクノロジーや、発明の才が発揮されても、その根底にあるのが、不便を解消しよう、もっと楽に、もっと効率的に、生産的になろうという発想です。つまり、「より良く」しようとあくせくすることで、ありのままの「良さ」——「今、ここ」で、まわりのものとつながるしあわせ感——を味わったり、大切にする回路がありません。「今」は、「欠如したもの」で、それを満たすために邁進しなければならないというのですから。

しあわせを知らない、ひとりよがりな人たちがつくったものなので、そこで何が作られても、本当の意味で私たちをしあわせにする力は持たないものばかり。原発は、そうやってできたものの代表例だといえるでしょう。これを作った人たちも、支え続けてきた人たちは、決して悪い人たちではなかった。自己犠牲的なまでの献身ぶりで一生懸命職務に励む誇り高い職人たちでした。でも、「今、ここ」にいる自分を大切にし、甘やかし、他の生き物たちや、地球全体とつながることだけは知らなかった。危険と汚染と背中合わせのエネルギーはいくらでも提供できても、生きとし生けるすべてのものとのつながりの回路から、愛のエネルギーを漲らせ、放射することはできなかったわけです。

この種の仕事からは、3.11を機にきっぱり足を洗いたいと思うのです。そうやってもちゃんと生きていけることを示すために、私はこのサイトをつくりました。

たとえば、私。2年前に安定した勤め仕事を辞めました。経済的な不安が全くないかというと、うそになります。でも、一つだけ死守したいと思うのは、この不安、焦りから、やりたくない仕事をするようなことは、一切合切もうやめようってことです。そうすれば、これまでと同じことを繰り返してしまうだけだから。

一見、「わがまま」に見えても、ただ単純に満ち足りて、しあわせでいたいという私たちの本音の方が、我慢、我慢を強いるこのシステムより、実はずっと正常だったことがわかったのですから。逆に、しあわせを手放しちゃいけない。というのも、このしあわせを通してはじめて、私たちは周りのものとつながるわけだし、このつながりの感覚こそが、私たちが地球に対して、未来の子供達に対して抱く責任感のはじまりなのだから。

じゃあ具体的にどうすればいいか。

理想主義的に聞こえるかもしれませんが、欠如感や不安からではなく、よろこびの充溢から仕事をすることもできると思うのです。「いま、ここ」にしっかりいることで、すべてのものとのつながりが感じられるようになると、おのずと、感謝の念や責任感がわいてきて、自分を与えたい、あますことなくすべて与え尽くしたい、そうして、よろこびにうちふるえながら、ひらききって、みんなとともにいたいという、恍惚的な気持ちが押し寄せてきます。それは一種の自己表現の衝動です。でも趣味やたしなみとしてなされるものよりずっと根源的な、存在に関わる表現衝動で、竹は竹、松は松として伸びていくように、自分の本質を内側から展開することで自分自身になるってことでもある。あるいは、動物が、自分の身体を延長させるように、それぞれ独特のパターン、リズムに浸された巣を自分のまわりに作っていくように、自分の世界を自分のまわりにはりめぐらせていく。そんな仕事です。そこで動員される自己表現の衝動は、なんとか食べて、サバイバルするため、衝動よりも強いと思うのです。力強い形を生み出すために、あえて形のない、保証のないところにふんばってい続けるたくましさもいりますが、そこから生まれてくることは、そこにしかない、どっしりした存在感と説得力、必然性のあるものになるでしょう。

自己表現としての仕事なんて。アーティストはいつの世も貧乏で、社会のはずれものだったじゃないという声が聞こえてきそうですね。それは狭義のアートが、個人主義的すぎたところに問題があったのではないかと思います。「自分の全てを、あますところなく与える」ところは共通していますが、それを「すべての人のために与える」点で、ちょっとやぶさかだったといえるかも。といっても、ケースバイケースだと思いますが。

充溢からはじまる自己表現としての仕事も、その成果を増殖せざるを得ないって思っています。といってもその増殖原理は、中核、希少なものの独占という欠如をひろげるがん細胞を養いながら、依存、隷属下にある人たちからお金をかき集めるような資本主義的な成長とは違ったものです。

物質的なモノの世界では、モノはあげるとなくなってしまいます。でも、アイデアや気持ちは、物質的な実在を持たない分、あげてもあげてもなくならない。というより、あげればあげるほど、自分のものになっていきます。教えることで、以前より理解が深まったとか、表現してはじめて、自分が何を感じていたのかはっきりした経験を持ったことある人は多いはず。実際、人をわくわくさせるような良いアイデアは、押し止めなく、人から人へとひろがっていかずにはいられませんが、たくさんの人を通して、そのアイデアには、いろんな解釈、新たな側面が付け加えられて、ゆたかになっていきます。これを増殖といわずに、なんと言いましょう。また、私意私欲のまじりっけなしの純粋な思い、愛をあげたら、それは何倍にもなって自分の元へもどって来ざるをない、逆に人を呪わば穴二つというのも、思い当たるふしのある人、多いはず。

こうしたインスピレーションや思いの増殖的な循環に、お金の流れがそうようになると、もう立派な仕事のできあがり。今、ここのゆたかさ、幸福感の充溢を分かち合う、自己表現衝動からはじまる仕事は、単なる精神論ではなく、ちゃんと仕事として成り立つこと。しかも、かなり成功する仕事としてなりたつことを、ここで示すことができればと思っています。
by makikohorita | 2016-07-28 11:45 | ギフトとしての仕事
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