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草の根文化の苗床

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ゆるしについて

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まずはちょっとしたワークから。

リラックして、気持ち良く、深呼吸してください。準備ができたなと思ったら、私の人生で、これほど幸せなことはないっていう瞬間を思い浮かべてください。過去にそんな記憶があれば、その時のことを思い浮かべてくれればいいし、こんなことがあれば、最高に嬉しいんだけれど・・という自分の全ての夢がかなった場面を思い浮かべてもてもいいでしょう。とにかく記憶力、想像力を全て駆使して、最高に幸せな瞬間を思い浮かべて、それをありありと味わってみましょう。

これがあなたの本当の状態だって考えてみてください。正常な状態では、いつでも、どこにいようと、何をしていようと、いつもこんな風に、いやそれ以上に幸せなはず。正しくワークを続けていたら、そういうことが起こります。

今度は、目を開けて、現実に戻ってきましょう。周りを見回して下さい。ほっと息を吐いてください。幸せ感は、持続していますか? だんだん薄らいできていますか?

幸せが失われてきたとすれば、それは何のせいでしょう? 先ほど味わった、幸せという唯一正常な状態から少しでも逸れてると感じた時、そのきっかけになったものがもし見つかったら、それが自分の中でどう感じられるか、その感じに注意を凝らしてみてください。例えば、騒音が気になるとか、そこにいるおじさんが、どうも目障りだとか、部屋が散らかっているのが気になる、忘れていた用事があったのが、心配になってきたとか。あるいは、昨日大失敗して、みんなに迷惑をかけたことや、ひどい目にあわされたこと、どうしても許せないあの人のことを思い出してしまった・・・など。それらはどこまでも澄み渡った幸せの青空にかすかにさす雲の影、静かな静かな湖の水面に立った波、風船のように限りなく膨らんでいく心にわずかに走る傷のように感じられるかもしれません。どこまでも広がった心を圧迫して、暗く狭いところへと閉じこめる圧力のように感じられるかもしれません。


ただこの際、大切なのは、あなたの幸せに陰りをさしたと思われる「騒音」や「目障りなもの」「散らかった部屋」「目障りな人」など、自分の外にあるものからは、一旦、身を引くことです(1)。そうしたものは、どう見ても、自分の気持ちを乱している直接の原因に思えます。

でも、あえて、それは脇に置いておいて、ひたすら、それらが、自分の中で、今、どう感じられるか、その感じに集中してみてください。それはあなたの中で、どんな風に感じられていますか? ヒリヒリした擦り傷、じくじく痛む火傷のように感じられるかもしれません。怒りがたまっていると思っていたのに、悲しくなったり、胸の奥がキュンと締め付けられるように感じはじめるかもしれません。

つまり私を幸せに陰りを差すあれやこれやの「気に障るもの」の奥には、この手の傷が隠れているのです。まずは、自分の中に何か不全感があって、それが、外界に投影されていたに過ぎない。自分のなかに潜むその傷の全貌が、そんなふうに、おぼろげにも見えてきたら、それを白日にさらして、何か私より大いなる存在に呼びかけてみましょう。神様、仏様、聖霊、天使、ハイヤーセルフ、本当の私、なんでも構いません。自分にとって一番しっくりくる存在、普段から親しんでいる存在があれば、その存在に呼びかけて、「私の中にこんな傷、いたみが見つかりました。どうぞ癒してください」と頼みます。その際、自分を守ろうとせず、ただただ、傷をさらけ出すこと。頑張ろうとせず、全てお任せして、完全にゆだね切ることがポイントです。

いつの間にか巻き込まれたストーリー、ドラマ、しがらみを一切リセット。素直で生命力たっぷりな、生まれたばかりのような原初の私に戻るのを手伝ってくれるものであれば、いいのです。

すると、その傷は、消えていきます。どんな風に消えていくかは、その人が呼びかける存在と、それについてその人が感じているイメージによるようです。私の場合は、液状の光がさっと差しこんできて、傷を押し流していく感じですね。すると再び心が明るくなり、本来の正常な状態、最高の幸せを感じている時特有の、全方向へ自分がどこまでも広がっていく膨張感が再び戻ってくるのに気づく。これが「ゆるし」です。

と言ってもそれは一瞬のこと。最高の幸福を味わうという正常な状態から私たちを逸らす「どこか足らない」という不全感は、もちろん一日中、ひっきりなしに、次から次へとやってきてキリがありません。

その度に、それが、自分の中でどう感じられるか、味わって、より大きな存在に、その傷を委ねるということを繰り返していきます。

最高の幸せを感じている状態を、まあるく膨らんだ風船にたとえると、そこに、次から次へと凹みが出てくる。その度に、それを「ゆるし」て、「あがない」を求めることで、凹みを取って、再び全方向にふわっと膨張した、くつろいだ状態を取り戻す。その繰り返し。

はじめは、気の遠くなるような作業に思えます。ただ、続けるにつれ、少しずつですが、それまでだったら心乱されていたこと、イライラしたり、怒ったり、悲しみの原因になっていたことに煩わせられなくなってきます。ちょっとやそっとでは、幸福感が揺るがなくなり、それが普段の生活の基調になってくるのです。

あるいは、ゴミが詰まっていて、空気も通らず、光も射さなくなっていた部屋のゴミを一つずつ取り除くことで、だんだん片付けられ、明るくピカピカになり、風通しも良くなっていく感じです。いらないものを手放すたびに、幸福を受け入れる器が広がっていくわけです。

いくつかのポイント***
このプロセスの一番のポイントは、(1)で書いたように、怒りや悲しみの直接の原因と思われる、自分の外にあるものを、一切責めないことです。

なぜかというと、まず、私たちは、現実そのものを見ているのではなく、現実の中に自分が押し付けたドラマの続きを見ていると考えるからです。たとえば、会ったこともない家族の写真を目にした時、どんな反応をするかは、人によってさまざま。その人がこれまで自分の家族どんな経験をしてきたかどうかで、異なってくるでしょう。つまり私たちはそこに自分の記憶の集積を重ね見ている。さらに、相手が良かれを思ってしたことを、まるで自分を非難しているようにとるといったすれ違いも、日常茶飯事ですよね。自分が今、生きてる惨めな気持ち、被害者意識を、相手に無理やり映し出してみている。とすれば、相手はちっとも悪くはない。

普通、「ゆるし」というと、相手が何か悪いことを実際にしたのを、もう気にしないよ・・・という意味ですが、『奇跡のコース』でいう「ゆるし」は、あなたが何か悪いことをしたと私は信じてしまったけれど、それは現実でなかったと認めるという意味になります。あなたの側には悪気も何もなかった。にもかかわらず、まるであなたの側が悪いかのように、私は思い込んでいた。でもその思い込みを、今、捨てましたよというのが、そこでいう「ゆるし」の始まりです。

そういうことは実際、よくあることですが、『奇跡のコース』はこれを広げて、人間関係のみならず、私たちに不全感を抱かせるあらゆるものは、このメカニズムから生み出されていると考えます。香咲弥須子さんの言葉を借りれば、何かを見て、ジャッジメント、判断を下すたびに私たちが行っていることは、次の通り。

まず、自分自身に対する判断がありーー「私は完璧ではない」という判断ですーーそれを証明するために、視線を巡らせ、肉眼を使って、的確なかたちを選んでそこに焦点を合わせるのです。そして、そこで網膜に取り込んだ映像を使う、ということをしています。(『祈りのある生き方』71ページ)

確かに体調が悪かったり、気分が落ち込んでいるときに、人や物に当たるということはありますよね。でも無意識レベルでもそれを行ってるとは。自分はダメだ、あるべき状態にないと感じる時、その人の周りのものはすべて、それを証明する道具になってしまうというのです。それはまるで「自分が今、惨めな気分なのは自分のせいじゃない、あの人、あの出来事のせいだ」と責任転嫁しているようなもの。このメカニズムのせいで、地獄を感じる人の周りには地獄が広がっていきます。実際、雰囲気悪くなったり、口喧嘩が始まったりします。

じゃあどうすればいいか。プロジェクターが周りの世界に映し出しっぱなしにしてる「私ってダメ」というドラマをひとまず撤回して、その本来の発信源である自分の内に収めます。

そして、今、自分の周りで展開中の出来事が、私にどう「感じ」らえるか? この「感じ」の方に、集中するのです。そうして初めて私たちは、悲惨なドラマを映し出してる相手ではなく、それを投影してやまないプロジェクター機器の側に立つことができます。その「感じ」を深く味わうと、そこから、なぜ自分が、この出来事で、そんなに取り乱してしまったのか、その理由になる記憶が次から次へと蘇ってきたりします。この「感じ」はさながら、ドラマのフィルム・アーカイブのようなものです。

たとえば、子供の時、親に構ってもらえなかったせいで、「人が自分を愛してくれていることを、すっかり信じられなくなってしまっている」「やっぱり愛されていないと気づいて傷つくのが怖くて、まずは守りに入ってしまう」といった癖できてしまっている可能性があります。それで人の「好意」も「威嚇」と解釈して、仮想的に向かって防衛する癖がついてしまったのかもしれません。これは一例にすぎませんが、この手の記憶には普段蓋がしてあって、意識されることがありません。でも、私たちの行動を知らぬ間のうちに規定して、生きづらい現実を繰り返し作り上げたりなどしています。そして何より、「最高の幸せ」という正常な状態を味わえなくしてしまっている。

だから、そうした「傷」を白日のもとにさらけ出して、大いなる存在に消してもらうわけです。すると、怖かったこと、悲しかったこと、寂しかったこと、憎くて仕方がなかったものが、気にならなくなり、ただただ、愛と感謝がわいてくる。攻撃されていたと思っていたストーリーが実はぜんぜん違うことに気づかされることもあります。

ただ、必要以上に分析する必要もないと思います。幸福に陰りを指しているこの傷を、しっかり感じることで、その直接の原因に見える外にある人やものから注意をそらすこともできます。が、逆にこの傷に深入りする必要もない。それは、どっちみち手放すゴミを、いつまでも大切に扱う必要はないことに似ています。

たとえば、さっきまで最高に幸福な気分を味わっていた私ですが、今、外を眺めていると、大声で談笑するおじさんの姿が目に入り、なぜかちょっと気分が暗くなってしまいました。そこですぐにその感じに集中して、今、ここにいるおじさんたち自身を気にするのはやめて(つまり「ゆるし」)、彼らを目にした私が勝手に感じ始めたその不快感を味わい続けることにしました。すると、大学で働いていた時に、これとよく似た「おじさん」たちに囲まれて味わったちょっと辛い思い出が、むくむくと湧き上がってくるのに気づきました。「不快な気分になったのは、そのせいだったんだ」とやっと、気付いた次第です。

でも、そうした思い出にこれ以上、かかずらっても仕方がありません。かえってこの傷から逃れられなくなる袋小路に陥ってしまいそうです。心のゴミはさっさと片付けましょう。というわけですぐに、「大いなる存在」に呼びかけ、頼んで、そうした一切合切を「液状の光」で、直ちに消してもらいます。

そうするとまた晴れやかな上機嫌がまた戻ってきました。同時に、感謝の気持ちが湧いてきて、これも、さっき見た「おじさん」たちのおかげ。もしかすると彼らに、もしかすると嫌な顔をしていたかも。彼らのいるところまで戻っていって、今度は笑いかけてみようかと、引き返したくなったりするわけです。

今回のこの「ゆるし」のおかげで、私の「おじさん」関係で、幸福から引き摺り下ろされることは、今後、なくなるのではないかと思います。要するに、「おじさん」恐怖症から癒された瞬間だと言っていいかも。そうした小さな掃除の積み重ねで、私たちは、私たちの本来の状態である、最高の幸せを受け入れる器を広げていく。と同時に、それをゆるぎなく保つ力を着々とつけていくんじゃないかって思っています。

だから気にかかることは全て、とにかく何でも、どんどん「ゆるし」、手放し、心をきれいに浄化していきましょう。そのために、いつでも即座に、喜んで手伝ってくれ、「あがない」幸福の頂点に引き戻してくれる存在と、親密な関係を育んでいきたいものです。




by makikohorita | 2016-09-01 13:03 | 奇跡のコース
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