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謙遜に自己評価を上げる! 

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『奇跡のコース』の中でも、もっともとっつきにくいもの、特に日本人に違和感があるのは、法外に高い自己評価を要求されること。たとえば、今日のレッスン224では、「私の真のアイデンティティは全く揺るぎないものであり、どこまでも気高く壮麗かつ偉大であり、ひたすら慈悲深く、罪悪感を全く持ちません。私の真のアイデンティティが光を注ぐのを天国も待っており、それはこの世界をも輝かせます」。「世界の救済は私にかかっています」というタイトルのレッスンもそういえばあった。ただ、その解説で言われるのは、この言葉は「謙遜の極み」を意味するとのこと。一体、どうなってるんだ。

私にとって、一番引っかかったのもそれ。今も、なんでこんなことを要求されるのか、完全に理解できてるとは思えないけれど、とりあえず、気づいたことを書いてみたい。

例えば、私は、思いついたことのうち、個人的な価値を超えていると思えることはすべて言葉にして、あった人に話したり、ブログにアップして、それこそ不特定多数の人に向けて発信している。

誰かのところに届くかなんて、何の保証もない。見過ごされ、忘れられ、ゴミ箱に速やかに入っていく確率の方が高いかもしれない。そんな風にシニカルになることもあれば、どこかに致命的な欠陥が見つかるんじゃないか、誰かに批判されたり、非難や攻撃の対象になるんじゃないかって怖くなることも、たまにある。

そんな思いがかすめるたびにいつも思い出すことにしているのは、私の言葉とともに拡散していくのは、「身体の殻の中に閉じ込められた私」じゃないってこと。だって、身体を持ったままインターネットの中や、あちこちの書店に散らばるなんて不可能だもの。そんな当たり前のことを忘れているから、絶望的な気持ちになったり、怖くなったりもするわけだ。

公開するやいなや、予測することも、コントロールすることもできない形で拡散し、広がっていく言葉。それは、私にとって、誰しも持っている「「本当の自分」、スピリットとしての私の果てしなさ、空のようにどこまでも広がっていく無限性を表す格好の比喩だ。いや比喩、というより「そのもの」と言っていいかもしれない。だって、私にとって書くことは、エゴの暗雲をかき分けかき分け、その奥にあるこの無限の青空に達する努力そのものだから。その出自からして、個人的なものではない。つまり「身体の殻の中に閉じ込められた私」はすでに、とっくの昔に、傍に置いて打ち捨ててきてる。

とすれば、何を怖がる必要があるかしら。攻撃され、傷つけられ得るのは、身体だけなのに。

またそれをコントロールしようなんて、よくもそんな傲慢で不可能なことが考えられたんだろうって呆れてしまう。コントロールできるのは、形を持つものだけなのに。

そんな小さな「エゴとしての私」はそっちのけにして、「本当の私」、スピリットとしての私は、どんどん膨張し、増殖し、広がっていく運動そのものだ。

というと、なんだか、抽象的で、とりとめない話をしているように聞こえるけれど、日々、よくあることでもある。

たとえば、人を生き生きさせてくれるいいアイデアは、最初は、とってもかすかなひらめきとして、誰かの心に影を落とす。でも、一旦口にされると、人から人へと広がっていく。また、それを受け止め、生かしたり、さらに他の人に伝えようとするいろんな人の思いと溶け合い、様々なバリエーションを奏で出す。そしてそれを受け止めた人の表現が、また別の人に受け止められ・・・ととどまることを知らない。

振り返ってみてみると、あの「かすかなひらめき」が、よくもこんなに膨らんで、広がっていったもんだと、びっくりするはず。そしてその広がり全体に、そのアイデアを生み出した人の「本当の私」は、それに触れてインスピレーションを受け取ったあらゆる人の「本当の私」と一つになって、息づいてる。要するに、今やこのすべての広がりを包み込んでいる。

アイデア拡散とともに進む、スピリットとしてのこの「本当の私」活動と、その背後で動き、手伝ってくれている力を目にするにつれ、私はいつも、畏怖の念に駆られてしまう。

そして、それを「身体の中に閉じ込められた私」と混同したり、その収集不可能な拡散状態を恐れてコントロールしようとあがくなんて傲慢なこと、ちょっとでも考えられたものだなと、呆れてしまうのだ。

「本当の私」の無限性を、その無限性のままに目撃して、それが自由に羽ばたけるように手放すことこそ、謙遜なことなんだってことも見えてくる。

表現したいことがあっても、怖くて公表できないと思っている人は、多分この二つの「私」を混同しているんだな。

普通、へりくだった、厳しい、低すぎるくらいの自己評価こそ、謙遜のしるしだって思われてる。もちろん、それがエゴとしての小さな私にだけ向けられていれば、いいのだけれど、その時、「本当の私」も一緒くたに、まるで湯と一緒に赤子も捨てるように捨てられてしまってるところが問題なよう。

だからまずは、低い自己評価をとにかく手放していく必要があるんだろうな。すると、その奥から、ふっと、息づいてくるものがある。

どこまでも広がっていけるスピリットとしてのこの「本当の私」を解放するのに必要なのは、人の目を気にして、一歩先に踏み出すことができない怖れを克服する勇気。何があっても最終的には人や人生や目に見えないものを信じる信頼感や愛・・・

そうやって、実際、わずかでもこの「本当の自分」の息遣いが感じられてきたら、大切に育てて、少なくともそれに向かっては、どんなジャッジメントも手放して、羽ばたけるようにする・・・すると、『奇跡のコース』にもあるような、どんなに言葉を尽くしても足らないほどの、姿を現し始めるのかもしれない。

そんなことを言うと、「まだまだ、そんなところまで、あなたは行っていないでしょう」と叱られそうだ。

そんな思いがかすめるたびに、自分に言い聞かせるのは、「やんないよりマシじゃない」ってこと。結果を気にするのも、エゴだからね。インディアンの伝説の中に出てくるハチドリのように、自分のできることを、とにかく、黙々とやる。


by makikohorita | 2016-09-02 17:50 | 奇跡のコース
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