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草の根文化の苗床

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病は気から 健康も気から

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勤め人時代、アレルギーに悩まされていたこともあり、食事療法にかなりはまっていたことがある。確かに食事が整うと、気持ちがいいけれど、でも、行き過ぎると、食事だけにすべてを期待して、健康も心の問題も、みんな解決する・・・なんて思いがち。食べ物を変化させただけで、何かミラクルが起こる・・・みたいな。そこまで行ったら、もう依存症。

私もそこまで行ったのだけど、その時思ったのは、なんだかずいぶん、生き苦しくなってきたぞ・・・ってこと。こだわりの材料を厳選して、お金と手間をいっぱいかけて、気付いたら、時間とエネルギーの大半を食料の準備と吟味に使ってる。また、極端な食習慣をつらぬこうとして、家族に負担をかけたり、人づきあいもなんだか窮屈になってきたぞ。

この不自由さはどこからくるんだろう? 大雑把に、すべてひっくるめて言えば、「心」でなくて、「物」に人生の主導権を与えたことから来てるって思う。「病は気から」という諺にあるように、「気」、「心」(といっても、体や自然と切り離されていない心)が体を整えていく力をちゃんと認めれば、まずはハッピーであることを何より重要視するはず。健康にいい・・・というより、美味しい。「〜主義」を貫くより、家族や友達と、いい関係を保って、楽しく一緒に食事する。

奇跡のコースのヒーリングは、まさに、この「心」に、身体の主導権を戻していく。物が体や心を作るのではなく、心が、体を作ることの再確認。だから、これを食べなさい、これをしなさい・・・といったことは、一切、言わない。

強いて言えば、ハッピー度を高めるものを食べる・・・という感じかな。と言っても、もちろん、どんどん心をエゴから解き放って、純化していくと、変なものは欲しくならなくなるので、結果的には、食事療法している人と似たようなものを食べ始める可能性も大。でも、「食べなきゃいけない」からそれを食べるのと、「食べたいから」食べるのとでは大違い。後者は、心の方に主導権をもたせてる。

それと同時に、私たちの「気」、「心」「思い」が持つ創造性を解き放つってこともやる。

そのためにまずやるべきなのは、物に頼るのをやめること。たとえば、食事療法の代わりにアフォーメーションをやるのは、『奇跡のコース』の方向だ。例えばコーヒーを飲む代わりに、「私は目覚めている」と口にしたり、心で思う方か効果的だって思ったり、美容にいい食材を遠くから大枚叩いて取り寄せるよりも「私は美しい」と鏡の姿に向かって言い聞かせる。そうしたアフォーメーションのアプローチの方に親近感を感じ始めたら、私たちは再び、物ではなくて、マインドに私たちの心身の管理を戻し始めてるってことになる。

私はここのところ、こちらのやり方にはまっている。だってお金かからないし、ほとんど動く必要もなくて、めんどくさくない。何より自分で自分の身体を掌握してるって自信が湧いてくる。食べ物の中にちょっとばかり残ってる有毒物質も、私の元気、幸せが、大丈夫、ハネとばしちゃうから!とゲラゲラ笑っていた方が、「私があれこれ体の調子が良くないのは、食品大企業が少しでも儲けようとして添加してる化学物質のせい」と嘆いて、受け身の無力感にひしがれたり、怒ってばかりいる犠牲者としての私でいるよりもずっと気持ちがいい。

具体的にやっているのは、食べて美味しく、気持ち良いものを、控え目、腹8分に食べるだけ。お腹が空いていないのに、無理に食べない。栄養のことも、最低限くらいにしか考えず、あとは全て心にまかせるというもの。食事療法をしたり、健康食をとっていた時よりもずっと元気になってる。それに何より、自信が湧いてくる。心が持ってる形成力に頼る度合いが増すってことは、自分が、自分の心や体を統御している度合いが増すってことだから。

また同じ理由から、お医者様はもちろん、代替医療的なアプローチをする人、いわゆるヒーラーも含め、人に頼るのもやめた。もちろん、緊急の時をのぞいてだが。お金がかかるだけでなく、いつもその人にお願いできるとは限らないし、何よりそうすることに慣れっこになることで、自分で自分を治す回路を忘れてしまったり、その力が萎えてしまうというロスの方が大きいなって思う。問題があるたびに人に頼って、問題の元に目を向けようとしない、そんな態度で得するのは、医療ビジネスくらい。自分で治す力の方を開発した方が、ずっと理にかなってると思うから。だって、自分の中に自分のことを一番よく知っている専門医がいるのに、外にそれを求めるのも、思えば、ちょっとおかしなことだ。

と言っても、「心の身体形成力」って言っても胡散臭い。鏡に向かってのアフォーメーションも、バカみたいという人も、多いかも。

実際、私も最初はそう思ってた。そう思ってる限り、実際、効果が上がらないので、「ほら見たことか、やっぱり」ってことになる。

そんな風に、懐疑的な人には効果がなくて、信じるもののみ救われるのは、なぜか。奇跡のコースで、マインドと呼ばれるのは、寝ている時も、刻々と創造力を発揮しながら、四六時中、身体を作る形成力と関係してる。心臓を動かし、栄養を体に行き渡らせ、爪や髪を伸ばしたり、痛んだ細胞を修復したり、新しい細胞を作って古いのに置き換える新陳代謝や、血圧、血糖値、ホルモンなどのバランスを整えるホメオスタシス、副交感神経系に寄り添って働くもの。

喜びやポジティブな思いは、こうしたマインドの身体形成力と合流し、これをはかどらせたり補完する。アフォーメーションがきくのも、そのせいだ。このことが、ヒーリングの基盤になる。

ただ、私たちの思いにほんの少しでも「分離」(たとえば、不信や疑いなんてその典型例)が入り込むと、身体の形成力を助けたりできなくなってしまう。だって、「本当にこんなことできるの?」「どうやってやるの?」「そんなことして意味あるの?」などといちいち問いかけていたら、絶えず心臓を動かしたり、ホメオスタシスを維持するために血糖値を上げ下げしたりできなくなって、体はめちゃめちゃになってしまうようなもの。

身体を健やかな状態で統率し、形成・再生するマインドは、ひたすら自分自身を、内発的なパターンに則って、延長していく力。一切の分離を知らない、どこまでもどこまでも一体感に浸されてはじめて、本領を発揮することができる。

この一体感を人間の態度に当てはめれば、信頼感と、感謝。何があっても、どんな時にも、全体としていい方に向かっているという確信、自信。この手の一体感が一番高まるのは、「神」の下にある時だ。「神」という言葉がピンとこなかったら、自然でもなんでも、好きな言葉で呼べばいいと思う。自分より大きくて、自分を生かしてくれている存在。エゴとしての自分が、自分を生かしていると考える人はそんなにいないだろうから。だって、自分のコントロールで、心臓を24時間動かし続けたり、複雑な新陳代謝システムを管理してるなんて言い放つ人なんてそうそういないと思うから。刃向わず、邪魔をせず、信頼しきって、生命力の自然な働きに、身を委ねる・・・

というわけで、『奇跡のコース』のヒーリングは、まず、1. 私の心身すべての統率を(食事や薬や特定の生活習慣など外にあるあらゆるものから引っこ抜いて)自分のマインドに取り戻し、全部そこに集めること。2. そうやって全権を委ねられた自分のマインドを、そのまた源である神にすっかり委ねることからなっている。

これまで、一応、身体の病の話をしてきたけれど、病という言葉を拡張させて、人生における問題すべてに当てはめてもいい。人間関係がうまくいかないのも、お金に困っているのも、すべて、それについての自分がどう思い、考えているか、つまりマインドに発するものと見る。つまり人のせい、世の中のせいにして、それらを責めるのをやめる代わりに、自分のマインドに、その全責任があると見る。犠牲者意識を持つのをやめる、と言ってもいい。

「そんなことしてたら、悪を糾弾し、正すことができなくなってしまうんじゃないか?」などと、抵抗がある人も多いかもしれない。それでも、思考実験としてでも、一度やってみることをお勧めする。とってもスッキリするから。誰かの、何かの犠牲になって苦しんでばかりいる受け身で無力なセルフイメージが一掃されて、自信と力が湧いてくるから。「すべては自分の思いによるもの」ということは、自力でいくらでも立ち上がれるということ。独立宣言だから。

そうやって、自分のマインドの中に、あらゆる問題の全責任を一旦集めてから、そのすべてを、自分の内なる「神」に委ねる。そうすることで、「一体感」モードのスイッチが入って、愛情、信頼、確信、感謝の念から、もう一度問題を捉え直し、作り直す力が湧いてくる。一体感からことに当たった時の創造力は、実際、とどまることを知らない。抵抗がなくなって、オープンな状態になっているので、生命力やインスピレーションが流れ込みやすくなるし、人間関係もスムーズで、協力体制が作りやすくなっているからだ。

翔ぶのが怖い 病の原因***

疑いや不信、自信のなさといった、分離のあらゆる兆しから解放された時、私たちのマインドは、実際、とてつもない力を発揮すると、『奇跡のコース』は述べている。

ではなぜ、こんなにたくさんの人たちが、様々な問題に苦しんでいるのだろう。

ネルソン・マンデラは、大統領就任演説の中で、「私たちがもっともおそれているもの。それは、自分が無力だということではない。自分ははかり知れない力を持っているということだ。私たちがもっとも恐れるもの、それは我々の光であって、闇ではない」と述べた。

これはとても深いところで、真実をついている言葉だと思う。私たち自身のエゴが、私たちの本来の力を恐れて、ストップをかけているのである。なんでもコントロールして見通しがきくものにしようとするエゴは、私たちの可能性、人生そのものも見通しのきく小さな範囲に押し込めてしまおうとする。大きく成長しても、翔ぶのが怖くて、巣の中から出れない鳥のように。

あるいは、人に、物に、食事などに、自分の人生を作る力を預けて、それらに頼り切ることで、自分のマインドの力だけは、発揮しなくていいように仕向ける。

でも、そうやって行き場を失ったマインドの途方もない力は、病的な現れ方をしてでも発現しようとして、私たちを蝕むことになるだろう。デプレッションの多くは、翔ぶのが強くて私たちが自分につけたストッパーのせいで、行き場を失ったエネルギーの鬱屈によるものが多いようだ。

何か悪いことが起こった時に、人のせいにしたいのだけど、責めたい当人は素知らぬ顔、何食わぬ顔をしている。そんな場合には、とにかく注意をひくために、自分を悲劇の主人公に仕立てる必要が出てくる。それで病気になるケースもあるようだ。そうした病気は、愛を求める絶望的な叫びのようなもの。自己破壊をすることで、一種の復讐をしようとしていることになる。私自身にも覚えがあるけれど、あまりに悲しい。

失敗して傷つくのを恐れて、正反対の自己破壊的な方向に走ることで、自分の存在価値を示そうとするのは、エゴがよくやる戦略だ。例えば、親や先生が期待するように良い子になれない。勉強もできない。でも、無力感は味わいたくないので、逆に、自分のできなさ加減をとことん強調したり、こんなにも堕ちることも出来るんだよというネガティブな形で、自分の力を誇示しようとする。いわゆる落ちこぼれや不良になっていくメカニズムだ。

『奇跡のコース』は、人が病気になるプロセスも、同じ論法で説明しようとする。まず最初に、心身を健やかに保つというポジティブな形で創造力を発揮するのを恐れるエゴにとらわれたマインドがある。でも、それだけだと、ただ無力感に苛まれるだけ。それも嫌なので、なんとか全能感を保つために、自分で自分を苦しめて、どこまで耐え抜くことができるとか、自分で自分をどこまで破壊し尽くせるか、自殺する勇気があるかといったネガティブな負荷に耐えぬ子ことで、自己主張する道を選ぶ。その結果が病気として現れるというのである。

それですべての病気が説明できるかどうか、私にはわからない。とりあえず実験として、一切の犠牲者意識、人のせいにする気持ち、人を責め、攻撃したいという気持ちといったあらゆる分離の兆しに、いつも注意を払うように努めている。見つけるやいなや、すぐにそれを「ゆるし」、自分の思い、マインドの方に問題があるとして責任をとる。と同時に、それを一体感の源泉である神にゆだねるってことを、繰り返してる。まだ初めて数ヶ月しかたっていないけれど、調子は上々。特に視力(ど近眼と老眼のコンビネーション)の回復は、目覚しいものがあって、目がよくなってきたので、メガネを変える必要があるかもしれない・・・などという初めての体験をしている。


by makikohorita | 2016-09-12 17:03 | 奇跡のコース
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