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謙遜に自己評価を上げる! 

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『奇跡のコース』の中でも、もっともとっつきにくいもの、特に日本人に違和感があるのは、法外に高い自己評価を要求されること。たとえば、今日のレッスン224では、「私の真のアイデンティティは全く揺るぎないものであり、どこまでも気高く壮麗かつ偉大であり、ひたすら慈悲深く、罪悪感を全く持ちません。私の真のアイデンティティが光を注ぐのを天国も待っており、それはこの世界をも輝かせます」。「世界の救済は私にかかっています」というタイトルのレッスンもそういえばあった。ただ、その解説で言われるのは、この言葉は「謙遜の極み」を意味するとのこと。一体、どうなってるんだ。

私にとって、一番引っかかったのもそれ。今も、なんでこんなことを要求されるのか、完全に理解できてるとは思えないけれど、とりあえず、気づいたことを書いてみたい。

例えば、私は、思いついたことのうち、個人的な価値を超えていると思えることはすべて言葉にして、あった人に話したり、ブログにアップして、それこそ不特定多数の人に向けて発信している。

誰かのところに届くかなんて、何の保証もない。見過ごされ、忘れられ、ゴミ箱に速やかに入っていく確率の方が高いかもしれない。そんな風にシニカルになることもあれば、どこかに致命的な欠陥が見つかるんじゃないか、誰かに批判されたり、非難や攻撃の対象になるんじゃないかって怖くなることも、たまにある。

そんな思いがかすめるたびにいつも思い出すことにしているのは、私の言葉とともに拡散していくのは、「身体の殻の中に閉じ込められた私」じゃないってこと。だって、身体を持ったままインターネットの中や、あちこちの書店に散らばるなんて不可能だもの。そんな当たり前のことを忘れているから、絶望的な気持ちになったり、怖くなったりもするわけだ。

公開するやいなや、予測することも、コントロールすることもできない形で拡散し、広がっていく言葉。それは、私にとって、誰しも持っている「「本当の自分」、スピリットとしての私の果てしなさ、空のようにどこまでも広がっていく無限性を表す格好の比喩だ。いや比喩、というより「そのもの」と言っていいかもしれない。だって、私にとって書くことは、エゴの暗雲をかき分けかき分け、その奥にあるこの無限の青空に達する努力そのものだから。その出自からして、個人的なものではない。つまり「身体の殻の中に閉じ込められた私」はすでに、とっくの昔に、傍に置いて打ち捨ててきてる。

とすれば、何を怖がる必要があるかしら。攻撃され、傷つけられ得るのは、身体だけなのに。

またそれをコントロールしようなんて、よくもそんな傲慢で不可能なことが考えられたんだろうって呆れてしまう。コントロールできるのは、形を持つものだけなのに。

そんな小さな「エゴとしての私」はそっちのけにして、「本当の私」、スピリットとしての私は、どんどん膨張し、増殖し、広がっていく運動そのものだ。

というと、なんだか、抽象的で、とりとめない話をしているように聞こえるけれど、日々、よくあることでもある。

たとえば、人を生き生きさせてくれるいいアイデアは、最初は、とってもかすかなひらめきとして、誰かの心に影を落とす。でも、一旦口にされると、人から人へと広がっていく。また、それを受け止め、生かしたり、さらに他の人に伝えようとするいろんな人の思いと溶け合い、様々なバリエーションを奏で出す。そしてそれを受け止めた人の表現が、また別の人に受け止められ・・・ととどまることを知らない。

振り返ってみてみると、あの「かすかなひらめき」が、よくもこんなに膨らんで、広がっていったもんだと、びっくりするはず。そしてその広がり全体に、そのアイデアを生み出した人の「本当の私」は、それに触れてインスピレーションを受け取ったあらゆる人の「本当の私」と一つになって、息づいてる。要するに、今やこのすべての広がりを包み込んでいる。

アイデア拡散とともに進む、スピリットとしてのこの「本当の私」活動と、その背後で動き、手伝ってくれている力を目にするにつれ、私はいつも、畏怖の念に駆られてしまう。

そして、それを「身体の中に閉じ込められた私」と混同したり、その収集不可能な拡散状態を恐れてコントロールしようとあがくなんて傲慢なこと、ちょっとでも考えられたものだなと、呆れてしまうのだ。

「本当の私」の無限性を、その無限性のままに目撃して、それが自由に羽ばたけるように手放すことこそ、謙遜なことなんだってことも見えてくる。

表現したいことがあっても、怖くて公表できないと思っている人は、多分この二つの「私」を混同しているんだな。

普通、へりくだった、厳しい、低すぎるくらいの自己評価こそ、謙遜のしるしだって思われてる。もちろん、それがエゴとしての小さな私にだけ向けられていれば、いいのだけれど、その時、「本当の私」も一緒くたに、まるで湯と一緒に赤子も捨てるように捨てられてしまってるところが問題なよう。

だからまずは、低い自己評価をとにかく手放していく必要があるんだろうな。すると、その奥から、ふっと、息づいてくるものがある。

どこまでも広がっていけるスピリットとしてのこの「本当の私」を解放するのに必要なのは、人の目を気にして、一歩先に踏み出すことができない怖れを克服する勇気。何があっても最終的には人や人生や目に見えないものを信じる信頼感や愛・・・

そうやって、実際、わずかでもこの「本当の自分」の息遣いが感じられてきたら、大切に育てて、少なくともそれに向かっては、どんなジャッジメントも手放して、羽ばたけるようにする・・・すると、『奇跡のコース』にもあるような、どんなに言葉を尽くしても足らないほどの、姿を現し始めるのかもしれない。

そんなことを言うと、「まだまだ、そんなところまで、あなたは行っていないでしょう」と叱られそうだ。

そんな思いがかすめるたびに、自分に言い聞かせるのは、「やんないよりマシじゃない」ってこと。結果を気にするのも、エゴだからね。インディアンの伝説の中に出てくるハチドリのように、自分のできることを、とにかく、黙々とやる。


# by makikohorita | 2016-09-02 17:50 | 奇跡のコース

 『奇跡のコース』とは?

 『奇跡のコース』とは?_a0301410_13261051.jpg
大井敏恭 Atmosphere  由仁実験芸術農場にて
アメリカ、コロンビア大学で心理学の教鞭をとっていたヘレン・シャックマンという人が、1965年から72年にわたり、心の中に響いてくる声に従って書いた『奇跡のコース』という本があります。千ページを超える本文と、1日1個ずつやれと指示されている365のワークが書いてあるワークブックと、教師マニュアルと用語集の4巻からなる大部の書物で、アメリカのスピリチュアル系の思想書を読むと、随所に「奇跡のコースにもある通り」という言葉がさかんにでてくることが示すように、彼らの間では聖書のように扱われているもので、みなさん、そこから多くを学んで、自分の仕事を始めた様子。
と言ってもこれが唯一絶対の救いの道とは言いません。ア・コース・イン・ミラクルズ A Course in Miracles とAをつけるのは、古今東西この世に無数にある救いの道の一つに過ぎない。目的地はみんな一緒。どの道をたどってもいいのだけど、よかったらこの道どうぞ・・・くらいのスタンス。
とてもやりやすくて、普通の生活続けながら、修道院かお寺に修行に入らないと無理なくらいの濃密な変化を味わえるので、私は続けてる。

メッセージもとてもシンプル
私たちのすべてのいとなみは、愛かおそれからなされてる。おそれから生きるとき私たちはバラバラに分離した幻想の世界におちこみ、愛から生きると、実在する、すべてが一つの世界で生きることができる。
おそれから生きるのをやめて、愛だけから生きるようにしよう。

愛って何?
あなたは単なる治療をされただけでなく、エゴの彼方に存在する世界を、私に明示してくれました。エゴからの解放こそ、あなたが私にくださった、もっとも貴重な贈り物のように思われます。人が愛し始めるのは、ようやく「それから」なのですから。(アナイス・ニンから、精神分析家アランディへの手紙)

奇跡のコースのあらましもそう
この世は、生きとし生けるものすべてのスピリットの光に溢れてる。でも、その上に幾重にもエゴの暗雲がたちこめているので、この光が見えなくなっている。暗雲を払って、光だけの世界になる時、私たちは皆一つになれるという筋立て。

愛がない、だから外に、特定の「かたち」で現れた愛(実は偽物で、おそれにすぎない)にしがみつくのがエゴの暗雲。スピリットの愛は、この暗雲を払い尽くしたときに、私の中から渾々と無限に湧いてくるもの。

でもそちらの愛の方は、どんなかたち、言葉でも、捉えられない。特定のことをすれば、手に入るわけでもないし、どこを探しも見つからない(私たちそのものだから)。自分で探すのをやめてお任せした方がいい。私たちがやるべきなのは、暗雲をはらい、心をお掃除することだけ。では、エゴのお掃除から。

エゴとは

「このままじゃだめだ」という不全感、欠如感がすべての行動の動機にある。「ありのまま」の自分の価値を信頼していない。
しあわせになるには、愛されるためには、痩せなきゃ、あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない。「こうしちゃいられない」と、いつも焦ってる。
現状にいつも不満足。いつも、もっともっと・・・求めてる。
もっと賢く、美しく、優しく、仕事もできて、お金もあって・・・というふうに。

実質よりもかたち(資格や条件、準備)が好きなのがエゴ。かたちの方がコントロールしやすいので。愛そのものよりも、愛されるための資格、条件を満たしたり、そのための準備するのに一生懸命で、愛する暇がない。

根っこにあるのは、ありのままの自分は、価値がなくて、恥ずかしいものだという自信のなさと、そのまま受け止めてくれる人なんて誰もいないという不信感。

実際はその逆で、実際よりも自分を大きく見せ、強がらせる鎧兜など、余計なものを一切投げ捨て裸になり「人生を信じてとびこむ」ことが、愛の中に生きる唯一の道。

心を開いて、胸の中で膨らむ愛やしあわせの感触が、どこまでもどこまでも広がるにまかせること。「このままだったら、私、おかしくなりそう・・・」「気狂いだって思われるかも・・・」と心を閉ざした瞬間、葛藤が生じて、人間関係がぎくしゃくしたり、体の不調にあらわれることになる。

エゴは未知のものが嫌いなので、未来を支配、コントロールするために、計画を立てるのが好き。計画をたてるのは、エゴなので、やめよというのは、私には目から鱗だった。実際、ワークが進むと、うっとり、ぼーっとして、酔っ払ったようになり、先のことが考えられなくなる。とくに仕事のプラン、まったく消失。それでいいのか、今後やっていけるのか、不安感もあまり湧かない自分が怖くなることも。

でも、『奇跡のコース』のワークブックのガイドブックシリーズを出している香咲弥須子さんによると、そうやって、一瞬一瞬を大切にして、自分やまわりへの愛で満たしていると、進むべき道におのずと進んでいけるので、大丈夫なのだそう。実際、何の計画もあらかじめ立てないでおいて、朝の瞑想中思い浮かんだことを、その日その日に行き当たりばったりにやる方が、締め切りばかり立ててキリキリしているときよりずっと生産的なことに気づいた。

エゴの人間関係の基本は、対人恐怖症。プライドが高く、傷つくのが怖くて、いつも防衛してる。魅かれているのに、無関心なふりをして、そっけなく振舞うなど。

これに対して、スピリットで生きる人は、「人を信じて、とびこむ!」「実際よりも自分を大きく見せる余計なものはすべて捨てて、裸になる!」そうすると、想像以上のものが、かえってくることが多いよう。

これに対して、エゴの方は、大きなものを、矮小化して小さなかたちに閉じ込めるのが好き。人を見定め、決めつけ、こき下ろす。批判やゴシップが好き。とくにスピリットが現れてくると、理屈で防衛する傾向あり。「信じるものは救われる」「それでうまくいくんだったら苦労しないよ」など。

そうしたエゴの囚われから脱して、その先にあるものを探求しようというのがとりあえずの見取り図です。


# by makikohorita | 2016-09-01 13:26 | 奇跡のコース

ゆるしについて

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まずはちょっとしたワークから。

リラックして、気持ち良く、深呼吸してください。準備ができたなと思ったら、私の人生で、これほど幸せなことはないっていう瞬間を思い浮かべてください。過去にそんな記憶があれば、その時のことを思い浮かべてくれればいいし、こんなことがあれば、最高に嬉しいんだけれど・・という自分の全ての夢がかなった場面を思い浮かべてもてもいいでしょう。とにかく記憶力、想像力を全て駆使して、最高に幸せな瞬間を思い浮かべて、それをありありと味わってみましょう。

これがあなたの本当の状態だって考えてみてください。正常な状態では、いつでも、どこにいようと、何をしていようと、いつもこんな風に、いやそれ以上に幸せなはず。正しくワークを続けていたら、そういうことが起こります。

今度は、目を開けて、現実に戻ってきましょう。周りを見回して下さい。ほっと息を吐いてください。幸せ感は、持続していますか? だんだん薄らいできていますか?

幸せが失われてきたとすれば、それは何のせいでしょう? 先ほど味わった、幸せという唯一正常な状態から少しでも逸れてると感じた時、そのきっかけになったものがもし見つかったら、それが自分の中でどう感じられるか、その感じに注意を凝らしてみてください。例えば、騒音が気になるとか、そこにいるおじさんが、どうも目障りだとか、部屋が散らかっているのが気になる、忘れていた用事があったのが、心配になってきたとか。あるいは、昨日大失敗して、みんなに迷惑をかけたことや、ひどい目にあわされたこと、どうしても許せないあの人のことを思い出してしまった・・・など。それらはどこまでも澄み渡った幸せの青空にかすかにさす雲の影、静かな静かな湖の水面に立った波、風船のように限りなく膨らんでいく心にわずかに走る傷のように感じられるかもしれません。どこまでも広がった心を圧迫して、暗く狭いところへと閉じこめる圧力のように感じられるかもしれません。


ただこの際、大切なのは、あなたの幸せに陰りをさしたと思われる「騒音」や「目障りなもの」「散らかった部屋」「目障りな人」など、自分の外にあるものからは、一旦、身を引くことです(1)。そうしたものは、どう見ても、自分の気持ちを乱している直接の原因に思えます。

でも、あえて、それは脇に置いておいて、ひたすら、それらが、自分の中で、今、どう感じられるか、その感じに集中してみてください。それはあなたの中で、どんな風に感じられていますか? ヒリヒリした擦り傷、じくじく痛む火傷のように感じられるかもしれません。怒りがたまっていると思っていたのに、悲しくなったり、胸の奥がキュンと締め付けられるように感じはじめるかもしれません。

つまり私を幸せに陰りを差すあれやこれやの「気に障るもの」の奥には、この手の傷が隠れているのです。まずは、自分の中に何か不全感があって、それが、外界に投影されていたに過ぎない。自分のなかに潜むその傷の全貌が、そんなふうに、おぼろげにも見えてきたら、それを白日にさらして、何か私より大いなる存在に呼びかけてみましょう。神様、仏様、聖霊、天使、ハイヤーセルフ、本当の私、なんでも構いません。自分にとって一番しっくりくる存在、普段から親しんでいる存在があれば、その存在に呼びかけて、「私の中にこんな傷、いたみが見つかりました。どうぞ癒してください」と頼みます。その際、自分を守ろうとせず、ただただ、傷をさらけ出すこと。頑張ろうとせず、全てお任せして、完全にゆだね切ることがポイントです。

いつの間にか巻き込まれたストーリー、ドラマ、しがらみを一切リセット。素直で生命力たっぷりな、生まれたばかりのような原初の私に戻るのを手伝ってくれるものであれば、いいのです。

すると、その傷は、消えていきます。どんな風に消えていくかは、その人が呼びかける存在と、それについてその人が感じているイメージによるようです。私の場合は、液状の光がさっと差しこんできて、傷を押し流していく感じですね。すると再び心が明るくなり、本来の正常な状態、最高の幸せを感じている時特有の、全方向へ自分がどこまでも広がっていく膨張感が再び戻ってくるのに気づく。これが「ゆるし」です。

と言ってもそれは一瞬のこと。最高の幸福を味わうという正常な状態から私たちを逸らす「どこか足らない」という不全感は、もちろん一日中、ひっきりなしに、次から次へとやってきてキリがありません。

その度に、それが、自分の中でどう感じられるか、味わって、より大きな存在に、その傷を委ねるということを繰り返していきます。

最高の幸せを感じている状態を、まあるく膨らんだ風船にたとえると、そこに、次から次へと凹みが出てくる。その度に、それを「ゆるし」て、「あがない」を求めることで、凹みを取って、再び全方向にふわっと膨張した、くつろいだ状態を取り戻す。その繰り返し。

はじめは、気の遠くなるような作業に思えます。ただ、続けるにつれ、少しずつですが、それまでだったら心乱されていたこと、イライラしたり、怒ったり、悲しみの原因になっていたことに煩わせられなくなってきます。ちょっとやそっとでは、幸福感が揺るがなくなり、それが普段の生活の基調になってくるのです。

あるいは、ゴミが詰まっていて、空気も通らず、光も射さなくなっていた部屋のゴミを一つずつ取り除くことで、だんだん片付けられ、明るくピカピカになり、風通しも良くなっていく感じです。いらないものを手放すたびに、幸福を受け入れる器が広がっていくわけです。

いくつかのポイント***
このプロセスの一番のポイントは、(1)で書いたように、怒りや悲しみの直接の原因と思われる、自分の外にあるものを、一切責めないことです。

なぜかというと、まず、私たちは、現実そのものを見ているのではなく、現実の中に自分が押し付けたドラマの続きを見ていると考えるからです。たとえば、会ったこともない家族の写真を目にした時、どんな反応をするかは、人によってさまざま。その人がこれまで自分の家族どんな経験をしてきたかどうかで、異なってくるでしょう。つまり私たちはそこに自分の記憶の集積を重ね見ている。さらに、相手が良かれを思ってしたことを、まるで自分を非難しているようにとるといったすれ違いも、日常茶飯事ですよね。自分が今、生きてる惨めな気持ち、被害者意識を、相手に無理やり映し出してみている。とすれば、相手はちっとも悪くはない。

普通、「ゆるし」というと、相手が何か悪いことを実際にしたのを、もう気にしないよ・・・という意味ですが、『奇跡のコース』でいう「ゆるし」は、あなたが何か悪いことをしたと私は信じてしまったけれど、それは現実でなかったと認めるという意味になります。あなたの側には悪気も何もなかった。にもかかわらず、まるであなたの側が悪いかのように、私は思い込んでいた。でもその思い込みを、今、捨てましたよというのが、そこでいう「ゆるし」の始まりです。

そういうことは実際、よくあることですが、『奇跡のコース』はこれを広げて、人間関係のみならず、私たちに不全感を抱かせるあらゆるものは、このメカニズムから生み出されていると考えます。香咲弥須子さんの言葉を借りれば、何かを見て、ジャッジメント、判断を下すたびに私たちが行っていることは、次の通り。

まず、自分自身に対する判断がありーー「私は完璧ではない」という判断ですーーそれを証明するために、視線を巡らせ、肉眼を使って、的確なかたちを選んでそこに焦点を合わせるのです。そして、そこで網膜に取り込んだ映像を使う、ということをしています。(『祈りのある生き方』71ページ)

確かに体調が悪かったり、気分が落ち込んでいるときに、人や物に当たるということはありますよね。でも無意識レベルでもそれを行ってるとは。自分はダメだ、あるべき状態にないと感じる時、その人の周りのものはすべて、それを証明する道具になってしまうというのです。それはまるで「自分が今、惨めな気分なのは自分のせいじゃない、あの人、あの出来事のせいだ」と責任転嫁しているようなもの。このメカニズムのせいで、地獄を感じる人の周りには地獄が広がっていきます。実際、雰囲気悪くなったり、口喧嘩が始まったりします。

じゃあどうすればいいか。プロジェクターが周りの世界に映し出しっぱなしにしてる「私ってダメ」というドラマをひとまず撤回して、その本来の発信源である自分の内に収めます。

そして、今、自分の周りで展開中の出来事が、私にどう「感じ」らえるか? この「感じ」の方に、集中するのです。そうして初めて私たちは、悲惨なドラマを映し出してる相手ではなく、それを投影してやまないプロジェクター機器の側に立つことができます。その「感じ」を深く味わうと、そこから、なぜ自分が、この出来事で、そんなに取り乱してしまったのか、その理由になる記憶が次から次へと蘇ってきたりします。この「感じ」はさながら、ドラマのフィルム・アーカイブのようなものです。

たとえば、子供の時、親に構ってもらえなかったせいで、「人が自分を愛してくれていることを、すっかり信じられなくなってしまっている」「やっぱり愛されていないと気づいて傷つくのが怖くて、まずは守りに入ってしまう」といった癖できてしまっている可能性があります。それで人の「好意」も「威嚇」と解釈して、仮想的に向かって防衛する癖がついてしまったのかもしれません。これは一例にすぎませんが、この手の記憶には普段蓋がしてあって、意識されることがありません。でも、私たちの行動を知らぬ間のうちに規定して、生きづらい現実を繰り返し作り上げたりなどしています。そして何より、「最高の幸せ」という正常な状態を味わえなくしてしまっている。

だから、そうした「傷」を白日のもとにさらけ出して、大いなる存在に消してもらうわけです。すると、怖かったこと、悲しかったこと、寂しかったこと、憎くて仕方がなかったものが、気にならなくなり、ただただ、愛と感謝がわいてくる。攻撃されていたと思っていたストーリーが実はぜんぜん違うことに気づかされることもあります。

ただ、必要以上に分析する必要もないと思います。幸福に陰りを指しているこの傷を、しっかり感じることで、その直接の原因に見える外にある人やものから注意をそらすこともできます。が、逆にこの傷に深入りする必要もない。それは、どっちみち手放すゴミを、いつまでも大切に扱う必要はないことに似ています。

たとえば、さっきまで最高に幸福な気分を味わっていた私ですが、今、外を眺めていると、大声で談笑するおじさんの姿が目に入り、なぜかちょっと気分が暗くなってしまいました。そこですぐにその感じに集中して、今、ここにいるおじさんたち自身を気にするのはやめて(つまり「ゆるし」)、彼らを目にした私が勝手に感じ始めたその不快感を味わい続けることにしました。すると、大学で働いていた時に、これとよく似た「おじさん」たちに囲まれて味わったちょっと辛い思い出が、むくむくと湧き上がってくるのに気づきました。「不快な気分になったのは、そのせいだったんだ」とやっと、気付いた次第です。

でも、そうした思い出にこれ以上、かかずらっても仕方がありません。かえってこの傷から逃れられなくなる袋小路に陥ってしまいそうです。心のゴミはさっさと片付けましょう。というわけですぐに、「大いなる存在」に呼びかけ、頼んで、そうした一切合切を「液状の光」で、直ちに消してもらいます。

そうするとまた晴れやかな上機嫌がまた戻ってきました。同時に、感謝の気持ちが湧いてきて、これも、さっき見た「おじさん」たちのおかげ。もしかすると彼らに、もしかすると嫌な顔をしていたかも。彼らのいるところまで戻っていって、今度は笑いかけてみようかと、引き返したくなったりするわけです。

今回のこの「ゆるし」のおかげで、私の「おじさん」関係で、幸福から引き摺り下ろされることは、今後、なくなるのではないかと思います。要するに、「おじさん」恐怖症から癒された瞬間だと言っていいかも。そうした小さな掃除の積み重ねで、私たちは、私たちの本来の状態である、最高の幸せを受け入れる器を広げていく。と同時に、それをゆるぎなく保つ力を着々とつけていくんじゃないかって思っています。

だから気にかかることは全て、とにかく何でも、どんどん「ゆるし」、手放し、心をきれいに浄化していきましょう。そのために、いつでも即座に、喜んで手伝ってくれ、「あがない」幸福の頂点に引き戻してくれる存在と、親密な関係を育んでいきたいものです。




# by makikohorita | 2016-09-01 13:03 | 奇跡のコース

癒しも感じることから

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心身の不調、病気をどうにかしたい、八方ふさがりの状況を打開しようという時、最後の手段として神頼みする人、何らかの超感覚的な力に訴えようとするは、科学技術万能の時代になっても、まだまだたくさんいるようです。

そういった癒し願望を『奇跡のコース』風に解釈すると、どうなるでしょう? そのタイトルから連想させるように、奇跡を起こす究極の方法を教えてくれるのかしら。

『奇跡のコース』の奇跡に対するアプローチは、クールに見えるくらいシンプルなものです。奇跡とは、「すべては心からできていて、心が物質や身体に先立つ」ことを改めて再確認するチャンスにすぎないといわれます。だって、もしそうだとすれば、思い通りに現実がならないはずはないことになりますから。つまり、やり方さえ間違えなければ、奇跡って、起こるのが当たり前。起こらない時には、逆にどこかに障害があることになります。

「じゃあ、私の病気、治して!」「金欠治して!」と言いたくなるかもしれません。

ただ、そんな風に自分の外に物理的に存在する(と思ってる)問題を、直接解決しようとする時、どうしてもそこに、嫌な問題を「退治」しようとする対決姿勢が入ってしまいます。

それは「うまくいかなかったらどうしよう!」といった恐怖感、「このやり方、本当に効果あるの?」と言った不信感、「試してやろう!」といったジャッジメントの姿勢もセットになって連鎖的に引き起こしていきます。

そうした姿勢の一切が、問題と自分、癒しのプロセスと自分を分離して、切り離してしまうのが、それこそ問題なのです。

というのも、そんな風に「切り離す」時、創造力は、発動しなくなるからです。そんな風に邪魔をしなければいつもいつも働くはずの「心」の創造力や、痛んだ身体や状況を再建し、癒すためのせっかくの力が、そこでせき止められてしまうからです。

そもそも、現実の中に、そんな風に、何か不十分な感じ、欠如感、不快感を見出したり、「このままどんどん悪くなったらどうしよう」といった恐怖感を抱いたり、それを「解決」しようという防衛、戦いの姿勢を発動させるこのプロセス自体が、
病んだ心身を再建したり、新たな現実を作っていく「心」の創造力をブロックしては、問題を再生産している張本人なのです。

だから一番最初にやるべきなのは、「病気」や「金欠」といった問題を癒そうとすることではなく、
これらの問題について、また、これから起こるかもしれない癒しのプロセスについて、自分が今、どう「感じ」ているか、この「感じ」を癒すことなのです。

そこに少しでも恐怖感や不信感、批判的でジャッジメンタルな姿勢といった分離・切断がないかチェックして、少しでもそれが見つかれば、取り出して、白日のもとにさらさなければなりません。

そして、「これらを一掃してください、光で洗い流してください」と、「大いなる存在」に頼み、信頼しきって自分の全てを「ゆだね」る。

そうすると、光がさっとさして、みるみるうちにもやもやした不快感や恐怖や批判的な思いの闇が消えていき、後に残るのは、ひたすら光と、平穏、静謐。信頼感、愛・・・といった一切の分離を知らない感情のみになります。

それらの感情に満たされる時、私は「心」を通して現れる生命の創造力を遮断せず、それに争い、抵抗することなく、それに向けて、全開して、ただ、ひらききることができます。

そうすれば、あとは、何にもしなくても、癒しのプロセスが進行し始めます。私の方ですることは、何にもなくなります。

心の中に、少しでも愛以外のものが見つかったら、すぐにその「感じ」を「大いなる存在」に対して、白日のもとにさらして、光で洗い流してもらうこと、
そして再び、愛しかない、ふわっとした状態に心を戻してもらうことを、
『奇跡のコース』では、「ゆるし」と呼びます。

癒しはその一つの応用ですね。

「ゆるし」が日々の習慣になり、呼吸のように自然に、気づいたらすでに行っているというのが、ゴールですが、それがもたらしてくれる安らぎとじわじわ静かに心を満たすよろこびは、とても言葉で語れません。

話を戻しましょう。だから、癒すべきなのは、「問題そのもの」ではないのです。そのことは、いくら強調してもしすぎることはないくらい。「問題そのもの」ではなくて、「問題を自分が今、どう感じているか」を癒してください。

それならば、自分が一番の癒し手。どこに行く必要も、誰に頼る必要もありません。誰にだって、今、ここで、すぐにできます。「究極の癒し」を探して、大枚叩いて世界中探し回る必要もありません。重要なのは、「癒しについて、自分がどう感じているか」、それを癒すことなのですから。

いつでも、どこでも、呼べば必ず来てくれる、というより片時も自分から離れることはない「大いなる存在」に、「ゆだね、まかせきれる」信頼感。心配しなくても、大丈夫」という安心感、「生かされてる!」という感謝の念やよろこび、愛そのものが湧いてきたら、それだけでもう癒しのスイッチが入る。これが身につけば、本当に、生きるのが楽になります。


# by makikohorita | 2016-08-31 15:40 | 奇跡のコース

神様はペットのようなもの?

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いわゆる「神」について語ろうとすると、いつも、言葉の選択に困ってしまう。私にとって、それは何か仰々しい「特別のもの」の正反対。雑草のようにどこにでもあるもの。あまりにささやかなので、普段、気づかれることはないけれど、ひたすら、私たちを支えてくれているもの。あるいは、私の生命の源が、すべてのものと内側からつながっていて、内側から触れ、自分と一つのものとして、愛でたりいつくしんだり、把握したりできる・・・そんな驚きと喜びに何とか名前をつけようとしたに過ぎない。

だから、特別で権威的な響きのある「神」という言葉を使うのには、どうも抵抗がある。「神」というと、まるで、それさえ味方につけていれば、力を振るう権力者になれるような響きがするし、そんなの私が感じていることの全く正反対だからだ。

でも、それらすべては、私が「神」というこの言葉にくっつけた記憶のガラクタに過ぎないのかも。

というわけで、愛以外のものが心にあるのに気付いた時にいつもそうしているように、この存在に助けを求める。

すると、「神」という言葉が、再び、フレッシュな、ピカピカした言葉に見えてきたよ。正直、何て呼ぼうと、いいのかもしれない。一人一人、自分で一番しっくりくる呼び方をすればいいんだと思う。

私にとって「神」とは、いつも一緒にいる、まるで慣れ親しんだペットのようなもの。呼べば必ずやってきて、どんな時も、「無条件の愛そのもの」という万能の薬で私を癒してくれる。

呼ばない時は、いるのも気づかない静けさで、じっと控えている。そこのところもよく躾けられたペットに似ているかも。

こんなことを言うと、真面目な宗教者に叱られるかもしれないけれど、私といつも一緒の神様は、このたとえをとても気に入ってくれたようで、大喜びの様子。

そうした「神」なしに、生きていくことは、私にはもうできないと思う。

『奇跡のコース』を始めてからまるで呼吸するように、絶えずやっている「ゆるし」が、まず、この存在抜きではできない。

ゆるしの対象になるのは、「失礼な人」でも、「心身の不調」でも、「金欠状態」でもいい。

とにかく心の中に、「最高の幸せな状態」に少しでも翳をさす「愛」以外のものが見つかったら、即座にこの「神」を呼び、正直にその傷や汚れをさらす。信頼しきって、ひらききって・・・すると次の瞬間にはそれはなくなり、再び私の心は、愛で満たされ、後にあるのは感謝ばかり。

その感謝の念があまりに大きいので、不機嫌の原因となったトラブルの元凶にまで感謝してしまうほどだ。それは本当に一瞬で起こるので、意識に上るのは、この感謝する瞬間ばかり。そのせいで感謝するために生きてるんだ、そのためにこの人生ってあるんだって思えるほど。

これほど楽な生き方もあるのに、なぜみんな、自力で問題解決しようとするんだろう。自分の作ったストーリーの監獄の中にがんじがらめになって、時々そこに一瞬、広大な外の世界から差しこむ光も目に入らないかのようだ。

エゴが作ったストーリーが一旦始まると、なんとかそれをハッピーエンドにしようと、みんなそのストーリーの中でもがく。でも、そのストーリーの全体のトーン、流れ、どんな雰囲気で、一瞬一瞬生きるか・・・は、その進行とは別のレベルからくるんじゃないだろうか。たとえて言えば、シナリオの中にではなくて、そのストーリーの舞台裏、あるいは語り手の下にある。自分が今巻き込まれているストーリーの舞台裏が、時々見え隠れする。その瞬間、それをすかさず捉えることさえできれば、そこからストーリー全体の意味が全く新たな形で見えてきたり。場合によってはそれから降りたり、心機一転、新しいストーリーを始めることもできる。「ゆるし」はそのためのテクニックの一つだ。

ゲーテの『形態学』の中のたとえを使えば、ピアニストの手の一本一本の指は、なぜこんな重労働を続けなきゃいけないかとぼやきながら、駆けずり回ってる。でもある時、自分たちが奏でている音楽をおぼろげながら耳にしたり、美しい音楽を奏でようとしているピアニストの意思とつながったりすることがある。その度に恍惚となり、また自分の役目に励む。これとちょうど同じように、私も毎瞬毎瞬、勝手な方向に動きたくなるエゴの思いを消してくれる。また、自分だけで頑張ろうと躍起になったり、「うまくいかなかったらどうしよう?」と怖がったりするのは、自分が「指でしかない」と思いこみ、「ピアニスト」という本当の自分に目をつむること。訳のわからない重労働の中で、消耗しては嘆くことを繰り返すばかり。そんなちっぽけな自分より「大いなる存在」、ピアニストの意思や音楽の美しさに委ねて、恍惚としながら、自分の役目を果たして生きていければ、毎日パラダイスなのに。


# by makikohorita | 2016-08-31 15:26 | 奇跡のコース
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人を、社会を動かす文化発信力を鍛えるには? スピリチュアリティ、アート、アクティビズムなどについて、調査、実践してわかったこと、日々思うこと。


by 堀田 真紀子
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