つながりの感覚が目覚めて来ている人は、実際、思いのほか多いのではないかというのが私の推測だ。にもかかわらず、なかなか新しい世界ができないのはなぜだろうか。
この感覚の中で生きている私と、旧い社会のシステムに適応している私との間のずれ,分裂が当たり前のこと、それ以外に選択肢のないこととして,放置されてしまっているからだ。つまり「個人的にどう思うか」について沈黙せざるを得ず、「つらそうな顔」をしながら生き続けなければならない、ちょっとしたことでは動かせない仕組みにぐるりと取り囲まれてしまっている。その結果、個人としてみればまったく善意の人たちが、処理しきれない毒を排出し続ける原発に代表されるような怪物的なシステムに加担しつづけるという異常な事態が野放しにされることにもなる。
そのような状態を何とか変えようと、政治に訴えるというのは、この際、とても自然な反応だ。が、そのための政治の概念からして、この手のずれをがっしりと構造化させているときている。
古い社会の蛹の殻を打ち破るアクターとして期待されるのは、まずは社会運動だろう。3.11 以降の脱原発運動の高まりは、もちろん希望をもたせてくれるものだ。とはいえ、そこでも——とくに地方都市では——たとえば署名をあつめて政治家に送る、あるいは議会に自分たちの代表を送るなど必要な変化を、代表民主制のシステムを使って、中央からトップダウンに起こそうといった発想がまだまだ支配的であるように思う。 殻をやぶるはずの運動が、殻に依存ししがみついているという本末転倒な状態がそこにあるように思うのである。
そもそも代表民主制の政治を介して社会が変わると楽観することが致命的なのは、大企業が経済経由で政治にかける圧力をはじめとした資本主義の現実を甘く見すぎていることにある。実際、一国の経済的な命運を左右するほどの規模の大資本が国境を越えて動く中、政治家ができることは限られている。誰が選ばれても同じとまでは言わないが、資本の撤退をまねき、国に失業者をあふれさせたくなければ、関税を撤廃させ、各種規制を緩和するというふうに、資本の側の言い分をきくことを余儀なくさせられるシナリオを、大筋としてたどるのは避けられない。
政治家より実質的にはずっと社会を規定する力をもつこうした巨大資本の流れはしかし、無敵に見えるのはその外見だけで、実は弱点がある。私たち一人一人が、生活や労働、消費によってこれを不断に支えているからこそ、そのように存在しているということ。無数の人たちがいっせいに生き方を変えると、そちらの方も変化を余儀なくされる。つまり私たちの日々の生き方の変化こそが、今問われているのである。
つまり、代表民主主義の手続きを介した政治は、資本の権力を反映させているにすぎない今、民主主義を機能しえるものにするには、無数の人たちが「自分が見たい世界を実現するには、自分がやるしかない!」と組織的に生き方を変えて、直接行動で示すことしかないと思うのである。
このように考えていくと、現行の代表民主主義が、政治的に働くどころか、本当の意味で政治的であることを妨げていることも見えてくる。というのも、それが前提とし、また強化している精神的な構えが、今、草の根から社会を変えるほとんど唯一の道である、新しい世界をつくるDIY的な実践に不可欠な、私たち一人一人の主体性やリーダーシップを萎えさせるものだからである。さすがに政治家を指導者としてあおぐ人は少なくなったが、それでも私たちは、自分たちの意思を直接実現しようとするよりも、まずはこれを政治家に託そうとする。いわゆる政治好きといえばふつう、自分がひいきにしている政治家を応援し、そこにいたるまでのかけひき、闘争のあらゆる細部に詳しい人、あるいは首尾よく当選して議会へ送り出した政治家がちっとも自分たちの思う通りに動いてくれない不平不満を、政治議論と称しまくしたてる人をさす。しかしそうしたいわゆる「政治」に新しい世界をつくる力は、ほとんどない。
ようするにこのシステムにどっぷり浸っていると、人任せの癖がついてしまい、自分自身が勇気ある行動の担い手になることなど、思いつきもしなくなってしまう危険がある。
政治の名の下にそうした不毛なことに人がかかずらっている限り、社会を本当に変えるに必要な、無数の主体的な人々の勇気ある行動の怒濤のような波をつくることはいつまでたってもできない。
何より、自分の見たい世界をつくれるのは、自分しかいない、というあたりまえの事実が、そこでは見過ごされてしまう。期待しては裏切られての繰り返しは精神衛生上良くない。自分の見たい世界のヴィジョンはそこあるのに、手足を縛られているので、その実現のために自分では一歩も動くことができないようなフラストレーションがそこにある。これは心身の乖離をうながし、無力感を積もらせていく。この分裂を埋めるには、手足の縛りは、決意さえすれば自力で外せることに気づいて、立ち上がるしかない。中国系アメリカ人のアクティビストのグレース・リー・ボグは「私たちが探しているリーダーは私たちなのよ」。1 ((PBSテレビ、Bill Moyer’s Journal 2007年、7月15日に放送。ビルモイヤーズとの対談より。http://www.pbs.org/moyers/journal/06152007/transcript3.htmlにそのテープ起こしがある)。
あらゆる人がリーダーになること、それは、それは、「自分がやるしかない!」といったイニシアティブを皆が握るというだけにとどまらない。第一部で確認したように、社会が今抱える問題の多くが環境問題のように誰しも聖者顔はできない包括的なものであることからも帰結するものだ。つまり問題は私たちの「外」のどこかあるのではなく、まさに私たち自身のライフスタイルやその行動にあるのだとすれば、私たちが変化の主体、つまり変化の「リーダー」になる以外に抜け道はない。
これはまた、第一部で確認した、つながりのパラダイムが極まるところ、本来的な生き方として姿をあらわす無条件の贈与の連鎖の中では、あらゆるものは自分にしかできないギフトを贈る物語の主人公となることからも帰結するものだ。実際、群れの一員として受け身でいる間は、自分本意にしか動けなかったくせに、ひょんとしたことからリーダーになるやいなや、たちまち視野が広くなり他者に対する思いやりや想像力ふるまいだすといったことがよくある。私たちは、とことん自分が中心になり、イニシアティブをとる主体とならなければ、他者と本当につながることができないからである。
お金も権力も、才能もない自分には、社会を変える力もないといった無力感も、言い逃れにならない。 というのも、それらは、権力を私たちの外に見て、これをとることで、外から、トップダウン的に社会を強制的に変えるときに必要な社会変革の道具にすぎないからである。私たちの内からなされる社会変革は、私たちが所有する力や富、あるいはそこから帰結する他者に対する支配力、強制力の有無とは、何の関係もない。変化はむしろ、何も持たない人々の、「私はもっと本来的、十全に生きたい」という叫びと、それを実現するために、障壁を打ち破っていく捨て身の勇気ある行動から生まれる。先ほどから問題にしている自己分裂もそうしてはじめて解消への見通しができるし、そのような行動の蓄積が、私たちがもっと生きやすい世界を、道無き道を踏み固め、一歩一歩つくっていく。それならば、既得利益者もそうでない人も、決意次第でいつでもはじめられる。ずいぶんのんびりとした歩みにみえる。しかし、権力による物心両面のコントロール、搾取のほとんどが、一見便利で迅速に見える手続きの間接性の隙間に巧妙に忍び込んでいるご時世だ、一見、楽で速く見える道が、こと私たちの解放という点から見ると、実は迂回路だったり、袋小路に通じていたりする。そんな中、自分の手の直接性のみに頼る亀のような歩みこそ、実は一番着実にゴールへと連れて行ってくれる近道だった、なんてことも大いにあり得る。何より、普段の暮らしを舞台に、草の根的な実践のレベルから、新しい世界をコツコツつくっていくことこそ、閉塞状況を打開するのに必要なことではないだろうか? 人任せにしたり、責任転嫁しないで、まずは自分でできるところから、自力で、自分の見たい世界をつくっていくDIY精神が、何にもまして重要になってくる。
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by makikohorita
| 2013-07-15 17:03
| ナウトピア 第二部