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シュタイナーの経済観とギフト・エコノミー

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(大井敏恭 賜物)
社会三分節論をひも解いていて、一つ感慨深かった・・・というか、厳しいことを言うなと思ったのは、「精神労働者は贈与で生きるべし」とされていること。というのも、私は物書き、パートナーは絵描き。お金にならないなりに、なんとかやっていこうとしているのだけれど、「そんな悪あがきはやめて、あきらめなさい」と言われているよう。

ただシュタイナーの経済論で言えば、「贈与」は、資本に投入される「融資」としてのお金、必要物資や労働力に習われる「決済」としてのお金と同等の経済プロセスの中のお金の重要な流れの一つとされてる。もうちょっと細かく言えば、決済したあと残る剰余価値は全て精神生活への「贈与」に当てられるべしとのこと。まさに知識人のパラダイス。

そこには、ただ、ちゃんとした根もがある。剰余価値が生まれるほど生産性を発揮出来るとき、その背後には、精神生活の支えがあると考えるのだ。それは、新しい技術や機械の発明といった直接的な形をとることもあれば、微分法の発見といった、それらすべてを可能にするもっと根本的な貢献もあれば、生きがいを与えたり、価値観を更新したり、何をなすべきかについて再考を迫るような、文化、芸術のいとなみも含まれている。

ついでに言えば、シュタイナーの経済論では、資本はそれを一番、生かす能力のある人の元になければならない。資本を託された人のその能力が首尾よく発揮されるときに、剰余価値が生まれる。キャピタル、ドイツ語だとカピーテルの語源「頭部」が連想させるように、精神的な能力に、いつも寄り沿って動く双子の兄弟のようなもの。だから投資された資本が膨らんで、再投資に必要な分を差し引いてもあまりが来る場合、その分を精神生活に流しこみお返しするのも筋だってことになる。

剰余価値を生み出せるほど、立派に管理した人たちのおかげだから、彼らがまずはその恩恵を受けるべきではないかとも思うけど、シュタイナーの描く理想社会では、資本はそもそも私有されてはおらず、非営利の連合体の管理の下にある。だから剰余価値が生まれても、それを私用に着服したり、埋蔵する主体はないので、すべて精神生活の担い手や機関へと流れこむ。
資本を生かせる能力のある人は、その能力を発揮する限り、管理者としての権限を持つけれど、それができなくなったら、資本は、これを生かせる力を持つ別の人のところへ随時動く中立的なものになるのだそうだ。とても理にかなってると思うけれど、そもそもどうやって始めればいいのやら。

ただ、精神労働者の立場からすると、精神生活がそうした贈与の原理で支えられるべきだというくだり、心情的にはとてもよくわかる気がする。アメリカの詩人、ルイス・ハイドは『ギフトーエロスの交易』という本の中で、英語でギフトという言葉に「才能」と「贈りもの」という二つの意味があるのは偶然ではないこと。才能を発揮することで成り立つ仕事は、それが真正なものであればあるほど、贈りものの原理で動くことを示している。まず、仕事ができること自体、たっぷりギフトをもらっている。世知辛い世の中で、絵を描いたり、文章を書いたりしながら生きていけるのは、その間、生活必需品を作って支えてくれてる人あってこそ。また精神労働の極まるところおとずれるインスピレーションの体験そのものが。「私が書いたのではない、私を貫いたギフトの風が書いたのだ」というロレンスの言葉にあるように。どこまでも自分が空っぽになり、謙虚に膝まづくことができないと、そもそも近づけない領域なのだ。

また、真剣な創造行為になればなるほど、私たちはそこに自分のすべてをこめて贈ろうとする。しかも、特定の人のためでなく、すべての人、すべてのもののために。そうしてはじめて、天のギフトの扉も開き、インスピレーションの流れに合流することができる。

またそうやって働くことそのものの中にある喜びが、すでに対価として余りある、自分ってなんて恵まれているんだろうって、感謝することしきり(といっても、喜びだけで、お腹は満たされないことは確かだけど・・・)

そうした一切が、「自分はこれだけ仕事のしたのだから、これだけ対価としてもらう権利がある」といった通常の賃金労働の態度を寄せ付けない、全く異質の世界なのだ。だってそれだと、仕事は、「自分のため」にやることになってしまう。自己完結したエゴの領域に閉じ込められてしまう。「すべてのもののために」働くことが何よりも必要とされているのに・・・ そんな精神労働の実感にふさわしいなりわいのあり方は、「すべてのために働いて、すべてから生かしてもらう」という世界全体に開いたあり方。あらゆる人たちの労働の成果から生まれた剰余価値が混ざり合って、精神労働者達を生かすというシュタイナーの構想は、その実感にかなり近いところにあるかも。

でもそう言うと、「通常の賃金労働者」を見下しているように聞こえるかもしれない。けれど、シュタイナーによると、そもそも、あらゆる労働は賃金と分離されるべしとのこと。彼の理想が実現されると、そもそも賃金労働者はいなくなるのだ。

というのも、労働はすべて、他者への献身。みんな、自分のためにではなく、人のために働いてる。とすれば、その人に必要なものは、やっぱり自分のためでなく「人のために働く」他者の労働成果からくるべきだから。彼自身の言葉を借りると、

個々人が、自分の仕事の成果から自分が受け取るものを、権利として主張せず、その成果を周りと分かち合うこと。また彼自身の欲しいものが自分自身の仕事の成果からでなく、他者の仕事の成果から満たされること。こうした度合いが高まれば高まるほど、そこに関わるすべての人々は癒されていく。(1908年3月12日の講演、「職業と所得」より)

つまり、贈り贈られ合う、ギフトエコノミーの喜びが社会にみなぎるようにしようというのだ。自分を生かしてもらうものを、他者からいただく。つまり、自分はみんなに生かしてもらってる・・・というのは、ふかーい安心感を呼ぶ。と同時に、私たちを限りなく謙虚にしていく。エゴではなくて、魂が喜ぶ経済観だ。どうせもらうなら、予期していないのに、いきなりもらうサプライズギフトのようにいただけたら最高・・・というわけで、シュタイナーの理想に沿って、私の夢も、どんどん膨らんでいく。


# by makikohorita | 2016-08-25 17:16 | ギフトとしての仕事

脱サラとシュタイナーの社会三分節化論 好きなことをやるのがモラルの始まり

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(子供達と共作した初めての手織り作品)
好きなことを仕事にするために脱サラする人たちが増えている。私自身もそうだ。類は友を呼ぶのか、私の周りも、気づいてみたらそういう人たちばかり。
好きなことで生きていこうとするというと、我が強くて自己中心的な人に思えるけれど、私の知る限り、ストレスでキリキリしているサラリーマンより、ずっといい人ばかり。もちろん経済的にはリスクを背負っていて、家族や子持ちの人たちはプレッシャーがありそうだけれど、それも補って余りあるほどの穏やかさがある。
それがどこから来るのかなって考えると、思いいたるのは、やはりシュタイナーの社会三分節化論などで言われている労働成果は売買していいけれど、労働そのものを売買すべきではないということ。労働成果だけを売っているのなら、独立した職人が、こだわりの成果を市に出すようなもので、ずっと自由に働けます。持続可能な未来のために、地球のために、将来の子供たちのために、個人として責任を引き受けながら、働き方を決めることもできるようになる。

それに、熟練労働者のスキル、創意工夫、イノベーション、発明の才など、仕事で動員されるあらゆる能力は、もちろん教えあったり刺激し合えるし、それもとても重要だけど、あくまで担い手は、最終的には個人だ。それを最大限に発揮するには、たっぷりの自由がいる。
もちろん、イノベーションが命のような最先端の領域、研究機関などでは、社員が自由でないと始まらないのも重々承知のよう。会社の中にスポーツジム、プールや娯楽施設あったり、勤務形態がとてもフレキシブルなところも出てきているようだ。でも、そもそもそんな企業がまだ一般化していなかったり、身体的に自由がきくことよりも重要な、企画決定のプロセスなどでも、どれだけイニシアティブを発揮できるかなどを考えると、本当に自由に働こうと思ったら、現状では、脱サラするしかないところがある。社会三分節化論者が描くような、独立した自由な労働者が分業し、助け合うためにつながる連合体のような企業ができれば越したことはないけれど、現状で一番近いのは、フリーランスの人たちが、目的ごとにチームを組んで一緒に助け合うような状態ということになるのだろう。 
だから脱サラした人たちの独特の「穏やかさ」は、社会三分節化論から見る時、労働に現れる精神生活が強制から逃れて、生き生き自由に羽ばたける、社会的な健やかさからきているって言えるかもしれない。
でももう少し、シュタイナーの哲学に深入りして、『自由の哲学』などで書かれているところまで行くと、集合意識の中にいることをやめて、個に目覚めた人たちにとって、「自分の好きなことを目一杯やって、その行為の中で生きつくす」自由な「行為への愛」に生きる時、初めて道徳的直観が生まれ、普遍的な人類愛や世界認識も生まれると言われるからだ。つまり好きなことをやっているたから「いい人」と言うより、好きなことをやっていないと「いい人」でいられないというところまで行くのだ。
一度この「道徳的直観」を目覚めれば、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」が一致して、好きなことをやって、自分を活かしきることが、そのまま、自分にできる最大限の社会貢献になる。
ただこれを目覚めさせるために、「君の個性の中から湧き出る衝動が良きものであることを、信頼するよ」という精神的なサポートが必要だ。
そこで思い出すのは、少し前、通勤、通学時間帯のバスで感じたこと。だんだん満員状態になって、立っているサラリーマンもいる中、疲れた面持ちの高校生が何人も、隣座席にカバンを置いて2席占領したまま座ってる。しかも何人も。テストが近いのか、一生懸命勉強している子もいる。周りが目に入らないんだろうかってびっくりしたのだけれど、同時に目に入ったのは、その子たちが着ているお仕着せの制服や、学校の紋章のついたカバン。個性の目覚める時期にありながら、その個性を誰も尊重、信頼してくれない、それを表現することを奨励したり助けてくれる人もいない。代わりに画一的なお仕着せをおしつけられてばかり。こんな中にいたら、生来、どんなにいい子も、道徳的直感も塞がれて出てこれなくなってしまう。
アウシュビッツの総責任者だったアイヒマンが、捕まえてみると、単に自分の頭で考えることができないことをのぞけば、職務に忠実で善良な官僚タイプだったことから、「悪の平凡さ」について論じたハンナ・アーレントのことも思い出される。これは拙著『ナウトピアへ』にも書いたことだけど、個性の時代を生きる私たちにとって、「個」になりきれないことは、魂に蓋をしてしまうことに等しい。今も、善良で優秀な企業戦士の人たちが、集団として、何世代もわたって汚染を広げ、未来の人たちが生きれなくなるような巨悪を平然と作り出したりしているのも、全く同じだ。



# by makikohorita | 2016-08-24 12:25 | ギフトとしての仕事

現実になるまで夢見れれば、現実を気にする必要もなくなる!


現実になるまで夢見れれば、現実を気にする必要もなくなる!_a0301410_15314448.jpg
アナスタシアの話をすると、男性に多いのだけれど、実話とは信じられない、作り話ではないのか?という人がいる。それに対する私の返答は、次の通り。物質的に実在していてもいなくても、ウラジミール・メグレが本の中で描いた彼女のイメージに動かされて、人生が変わった人たち、各地でエコビレッジ作りに乗り出した人たちは、現にたくさんいる。つまり、彼女のイメージは、パワー全開で実在していて、今現に、世界を形づくっている。だったら、それで十分じゃない?
 

例えばイエス・キリストが本当にいたかを実証的に調べている人たちがいる。仮にそんな人、歴史的に実在していなかったことが分かったとしても、だからと言って、彼にインスパイアされたり、彼の名の下にこれまでなされたこと全体の重要性(あるいは深刻性)が消えるわけではない。


スピリチュアルに生きるということは、私たちの様々な「思い」から、どんな世界が、今、生まれつつあるかを、日々、少しずつ大きくなる赤ちゃんを見守るように、大切に見守ること。それがとてもいいものだったら、もっと健やかで豊穣なものになるように助けの手を差しのべたり、育みに参加することじゃないかって思う。


「事実はどうなの?」「客観的に存在したの?」とジャッジするとき、私たちは、そこから自分を切り離す。ジャッジメントは、強力な切断力で、自分を相手と切り離すナイフのようなもの。ジャッジする人は、相手を貶めることで、自分が優位に立てると思って、ほとんど知らない領域にまでしゃしゃり出て判定を下そうとすることもしばしば。自分こそこの現実の全能の作者だといいたげだ。でも、実際にはジャッジして現実を決めつけるほど、そこから新しいことを学ぶチャンスも失われ、その人の現実は一面的になっていく。気がついてみたら、紙でできたおもちゃの国の王様だった・・・みたいなことになりかねない。


そうやって自分を切り離す代わりに、そこに働く創造力につながり、参加するのが、スピリチュアルな態度だと思う。それがどんなに欠陥だらけに見えても、その欠陥をどう生かして、素敵なものができるかを考え、即、行動に移す。病んでる人を見ても、そこにも刻々と働き続けている生命力の方に注目して、これを促すためにできることを、何でもする。同情して一緒に落ち込んだり、「これはひどい」といジャッジして、そこから自分を切り離す隙をうかがう暇なんてどこにもない。ワンネスとは、神秘的な合一感である前に、まずは実践的なものなんじゃないかって思ってる。


思い」の創造力


しかしどんなひどい状態を目にしても、そこに良きことが生まれつつある様子を見とどけたり、促したりできるようになるためには、焼け野原の大地を目にしても、足元に顔を覗かせるちっちゃな雑草に気づき、注目するような、生命に対するするどい感受性を培う必要がある。人の「思い」、夢が持つ創造力に対する、絶対的な信頼もいる。


「思い」こそが現実をつくっていると、アナスタシアも強調している。十分なエネルギーを注ぎこまれ、五感に訴え、ふさわしい感情をかきたてるイメージになるほど具体的に、かたどられた思いは、そこから新たな現実が生まれる卵、胚珠のようなもの。自律した生命を持ち、生き生きと、息づき始める。それは、遅かれ早かれ、物理的な現実に現れざるを得ない。


だから、もしそこに、純粋で、愛情深い、すばらしい思いに満たされたイメージがすでにあって、それに対応する現実が今のところ見つからなくても、それは大したことじゃない。「夢物語だ!」などといって否定するなんてもってのほか。逆に鼓舞して、応援してあげるべきなのだ。とくにそれが、これからどんな形でも取り得る、生きたものの成長に関わる場合には!「キリストを生んだと心から信じる親たちが、キリストを本当に育て上げる」と、別のところでアナスタシアがいったように。それは、現実に反しているのではなくて、現実になるために、もう少し時間と、エネルギーがいるだけに過ぎないのだから。


そのことを考えても、あるイメージが、現実に実在するのか?という問いは、ナンセンスになる。だってそのイメージは、今、現に「実在」して、私たちを動かしているのだから。私たちがそれを繰り返し思い出して、そこに十分なエネルギーを注入すれば、遅かれ早かれ、物質的な現実にも反映されるのだから。

 

実際、「ものが大切か、思いが大切か?」という問いに、「思い」と答える人がほとんどだとしても、実際、そのことを日々の生活に落とし込んで、行動であらわしているひとはといえば、ずっと少ないように見える。


とくに、科学的な事実や実証が問題になる場面では、物理的現実にまだ反映されておらず、だからそれと対応していない思いは、素気無く切り捨てられてしまいがち。「思い」の方が大切だと思ってるのなら、そんな人に対しては、こういうべきだろう。「もう少し待って。そして疑わないで。そしたらきっと、物理的現実にも反映されるから」。


私個人としては、客観的に、事実を捉えようとして、みすぼらしい現実を塗り固めるよりも、とにかく最高のイメージをつくって、その現実性を決して疑わないでいたい。それを強く念じて、それが実現したようすを全身で感じて、焼け野原に生えた最初の雑草のようなそのどんなに小さな萌芽も見逃さず、大喜びして、励ます! そうやって、そのイメージにたえず、確信という創造のエネルギーを注ぎこみ、ある日、必ず、堂々とした現実としてまかり通るようになるのを待つ。夢をひたすら望み、その「客観性」だとか「現実性の有無」と言った余計なことは考えない、いたってシンプルだ。


# by makikohorita | 2016-08-22 15:38 | アナスタシア

簡単・一発・セルフ・ヒーリング

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(エサレン研究所の朝の眺め)
セルフ・ヒーリングのやり方は色々あるようだけど、面倒くさがり屋の私は、食べ物や生活習慣など細かいところに気遣うのは苦手。根本に働きかけて、どんな不調も一発で治るようなシンプルな方法ってないのかしら・・・とかねがね思っていました。

『奇跡のコース』はそんなときの私の知恵袋。これによると、私たちの身体は、毎瞬毎瞬、神に継続的に創造されてる。「神」というと、宗教っぽくて胡散臭区思ったり、縁遠く感じる人もいるかもしれません。

でも、自分の体を自力ですべて管理してるって自信持って言える人って、たぶんいないはず。「自分の身体のシステムを自分の意思と注意と知恵でコントロールしたいと思っても、それはできない相談です。自分の意思で毎日数ミリずつ神や爪を伸ばすなど不可能だし、意識を向けなければ呼吸ができないとしたら、一体どうやって生きていけるというのでしょう。各種ホルモンの分泌量、血液のバランスの良い成分を自分で管理しなさいと言われたらお手上げです。自分のコントロールをはるかに超えた力は、地球の生態系にも自分の身体にもあり、その力が私たちを育み、調和させ、生命の力を謳歌できるように支えてくれているのです」(『知覚の扉を開けて』香咲弥須子)。

自分のコントロールをはるかに超えたその力は、狂いなく調和していて、疲れ知らず。24時間、休むことなく稼働中。だから私たちは、生きてられるし、この力に、安心して、くつろいで身を任せていられる。その総体を、「神」と呼ぶだけのこと。

その「神」による創造が継続されていることで、私たちの身体も維持されている−−それは、例えば心臓が脈を打ち続け、ホルモンやリンパ液や血液、血圧や血糖値などもホメオスタシスで、バランス値に保たれている。私の意識のあずかり知らぬそんなありがたい力で生かされているからこそ、私たちも生かされているということを違った言葉であらわしてるに過ぎないのです。

ところで、私たちの身体を維持するこの継続的な創造行為を、そんな「神」がなすままに任せておけば、問題はありません。なのに、変にそこをねじくるような情報を、人間がそこにさしはさむもんだから、様々な病気になる。ではヒーリングのために必要なことは、人間が勝手にそこに持ち込んだ、ねじくれた情報を一切合切、消去すること。そして、この継続的創造のプログラムを、まっさらな初期設定の状態に戻すという、たった一つだけのことなんだって、わかります。この初期設定の状態では、「神」による、自然治癒・再生力がただみなぎっているので、治癒は時間の問題ということになります。

それだけですべての難病や、明らかに外に原因がある怪我までが解決するかどうかは、正直私も疑問だし、わからないところ。ただ、どんなケースでも、自然治癒・再生力を高めること自体、悪いことにはならないと思います。

何よりこの方法のシンプルさが、私はとても気に入っています。特別の健康法や健康食品など一切、いらないし、手間もお金もかからない。

でも、病気をどんどん再生産する「ねじくれた情報」を一挙に消去するリセット・ボタンを押すって、具体的にどうすればいいのでしょう? 

何だか大変そうに聞こえますが、「大変そう」という思考も、この「ねじくれた情報」の最たるものの一つのようです。実際は、「大変」の正反対で、あらゆる「頑張り」の放棄と関わってる。とにかく、力を抜いて、信頼して、身体を自分よりずっと大きなものに、あずけきることが、コツなようです。徹底して、小さなエゴとしての「私」にできることなど、何にもない、と降参してしまう。

なぜかというと、香咲さんも言われるように病につながる思考には全て、小さなエゴとしての「私」にしがみつくことが絡んでる「どうせ悪いのは私」といった罪悪感から始まり、「私はこんなに苦しんでるのよ、それを見て」と、「可哀想な私、苦しんでいる私」を誇示して何とか周りの注意を引くことまでして、「私は愛されている」と感じたい絶望的な努力、それが長じると、「私がこんなに苦しんでるのも、愛してくれないあなたのせいなのよ」と、相手を責める攻撃になることもある。その手の自己否定的、他者否定的な思考が、本来すこやかになされるはずの身体の継続的創造過程に絡まりこんで、阻害してる。その結果が病になって現れるというのです。

今、自分が苦しんでる心身の不調が、この手のネガティブな思考のどんなバージョンと結びついて起こっているのか、突き止めるのも、面白い作業かもしれません。無意識下に潜伏していること、抑圧されていることも多いので困難な作業になることも多いそうです。

でも、一つ一つ突き止めなくても、全てひとまとめにして、一挙にゴミ袋に入れる方法があります。これらの思考の全てに、「私」が付いているところに目をつけて、「私」がそこに存在しえない状況を作ってしまうのです。すると、「私」にまつわる思考は、身体から自動的に抜けていきます。

それが、先ほども話した、あらゆる「頑張り」の放棄して、力を抜いて、信頼して、身体を自分よりずっと大きなものに、あずけきることだと思うのです。

この感覚をわたしが意識するようになったのは、持病のアレルギーを、気功をはじめとした代替療法だけで治したときでした。定期的に、原因不明の目の充血や目やに悩まされていて、その度に目薬(後で知ったのは、それらがすべてステロイド系だったこと)で症状を止めていたら、だんだん効く目薬がなくなって、どんどん強い目薬を処方されていたのですね。だからそれに伴って、症状もだんだん悪化して、3年ほど前にそのピークがきました。目の充血だけでなくて、目の周りが腫れてお岩さんのような顔になり、眼痛と頭痛で、じっとしていられないほどの発作がときどき襲ってくるほどに悪化したのです。渡米中に駆け込んだ眼科医をやっている親戚に、「これは目が悪いのではなくて、ホルモンバランスか免疫系なので、全身の問題。目医者に言っても仕方がないよ。僕はヨガをやってるけど、そういったものをやったほうが、効くと思う」という本音のアドヴァイスを受けることができたのをきっかけに、治療方向を転換。たまたま通っていたクリニックで教えていた気功教室に出たところ、涙が出て止まらなくなるのに気付きました。

そのとき。「あなたの体、とにかくものすごく緊張してる。ふっとゆるめてリラックスすればするほど、気のエネルギーが入ってきて、自然治癒力が活性するよ・・・と教えてくれた先生には本当に感謝。

とにかくあらゆる方法(うんと緊張させてさっと力を抜くとか、吐く息と一緒に、身体が液体になって沈み込んでいくのをイメージするとか)で、いつでもどこでも身体から力を抜くように心がけると、ますます涙、鼻水というふうに、あらゆる形でのデトックスがはじまり、はじめて半年経つ頃には、根強い目の充血も、片時も痛み止めを手放せなかったほどの眼精疲労からくる頭痛も、次第に嘘のように消えてしまいました。

「治ろう」と躍起になって身体をコントロールし続けようとする限り、病は消えなかったのに、コントロールを一切やめて、手放すと、かえって治ってしまうという、それはそれは、不思議なプロセスでした。

アインシュタインは、「問題が生じたレベルで、問題を解決することはできない」と言っていますが、まさに、そうだと思います。

また、アルコール匿名者の会が、アルコール中毒にアプローチするやり方とも共通点があると思います。そこでは、「お酒をやめるぞ」と自分で自分をコントロールしようとする限り、お酒はやめられない。そもそもこの「コントロールするぞ!」という態度の中に、「お酒がやめられない」原因が含まれているから、どうどうめぐりを繰り返してしまうと考えるそうです。この悪循環を断ち切るために、「私の力では、どうすることもできません」と降参して、自分よりも大きな力に自分をすっかり明け渡し、ゆだねてしまうと、逆に中毒からの打開の道が開けるのだそうです。

今でも、「私は違う!」というふうに、エゴとしての自分を周りから切り離し防衛体制に入ったり、時間がない、お金がない、誰にも構ってもらえない・・・と心配モードに入ると、体がみるみるキュッと緊張してくるのを感じます。これを放置していたら、また、アレルギーがぶり返すだろうなとも思います。

でも、昔と違うのは、それを意識できるし、どっちで生きるか、自分でちゃんと選択できること。ようするに、キュッと身体が緊張して縮んできたなと思ったら、フーッと深呼吸、脱力して、「おまかせ」モードに意識的に切り替える。私は、自分より大きな力に、自分をゆだねて生きてるだけ・・・・ということを思い起こすのです。その時、内側から、あたたかく、ゆったり、身体の境界を超え、風船のようにどんどん膨らんでいく膨張性の力が感じられてくると大丈夫。それに包まれて、心底安心して、今、ここにくつろげる。

自然治癒力が身体にみなぎってきて病気が治るだけじゃない。心の殻もとれて、対人恐怖の防衛感がなくなっていくので、人間関係もよくなってきます。人生のドラマ全体を一歩引いて外から眺めるような余裕もできるので、視野も広がり、ものの判断も間違うことがずっと少なくなって生きます。

時々、今、自分がやっていることが、宇宙の中の自分の役割にのっとったことなんだろうか、正しい選択をしているんだろうかって疑問に思うことがある。そんな時、確かめるのは、「今、ここ」に、私は、安心して身体をゆだねられるかなっていうこと。いつ、どこにいても、そこが、くつろげる我が家のように思えてきて、気持ちのいい、ふわふわのソファに身を埋めることができるような心地がすれば、大丈夫。そこで私を受け止めてくれているものこそ、ホーリースピリットだから。いつもいつも、この感触と一緒に生きること、そこで頭に閃いたことをすること。すると、本当に、楽〜に生きていける。


# by makikohorita | 2016-08-20 15:32 | 新しい世界をつくる!

アートとしての仕事、法のドキュメントとしてのお金 シュタイナーの社会三分節論

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        (去年の私の編み物作品 フリーマーケットに出したものもあり)

日本では教育法で有名なルドルフ・シュタイナー。神秘思想家としての彼に親しんでいる人も多いようですね。でも彼が首尾一貫した独特の社会思想の提唱者であったことを知る人は少ないかもしれません。ドイツ、ヨーロッパで、オルタナティブ・コミュニティではかなり影響力を持っています。私はボーデン湖を挟んで、向こう側はスイスの南ドイツ、アッハベルクで、ヨーゼフ・ボイスの思想的な弟子、ライナー・ラップマン主催する「社会彫刻研究会」に何度か参加しましたが、そこでは、例えば学生紛争時代のマルクスのように、シュタイナーの社会三節化について、口角とばして熱論を交わす人たちにたくさん会いました。


日本では、例えばヨーゼフ・ボイスの「クリエィティビティこそ資本」とみなす考え方や、地域通貨ブームの引き金にもなったNHK特集番組『エンデの遺言』、『エンデの警鐘』で紹介されていた、作家ミヒャエル・エンデの経済観の形で、時々その片鱗を垣間見た人も多いはず。彼らの考え方の背景には、シュタイナーの影響が色濃くありますから、彼らを通して、知らないうちに、親しんでいるという人もいるかもしれません。


シュタイナーの社会思想の基本は、社会は、互いに全く異なり独立しているものの、密接に絡み合い、相互作用しあう三つの部分からなっているという考え方です。それは、精神生活、法生活、経済生活と呼ばれるもので、フランス革命の謳い文句になった自由・平等・博愛は、この三つの部分のそれぞれの理想状態を実は表していたとか。つまり精神生活は自由、法生活は平等、経済生活は博愛を目指している。それぞれの部分が、それぞれの理想を体現しながら相互作用する社会は健やかな社会といえる。


ただ問題は、現代、そういう社会は稀なものになっていること。特に経済の領域に問題が集中しているのですが、それは、「経済の理想が博愛?」と聞くと、吹き出したり、首をかしげる人が多いことからも明らかと言えるでしょう。ここで言われる「博愛」はすべてのものへの思いやり。すべての人に、生きていくのに必要なものが十分いきわたるように分かち合うことです。エコノミーの語源は「家計」だそうですが、主婦が家計をやりくりするように、飢えた人、困窮した人が出ないように、将来の変化も予期しながら、効率よく、無駄なく、コミュニティ全体に必要な物資がいきわたるようにはからうことが、社会三分節論では、経済の理想とされています。ようするに、シュタイナーによると、経済は本来、競争原理とは異質の領域だってことになります。また、何でも好きなものを、好きな時に、いくらでも売買できるという、今の私たちが、普段、当然視してる「自由」も、経済の領域には、本来、あってはならないもの。だってそうすると、生態系を破壊したり、社会的弱者の人たちに負担がかかってきますからね。持続可能でないだけでなく、第一に、経済の理想である博愛、すべてのものへの思いやりがないがしろにされますからね。


社会三分節論では、自由競争の原理で動く私たちの資本主義経済は、本来、精神生活で追求されるべき理想を、経済の領域というお門違いな場所で、追求していると考えます。そこから、環境破壊、資源の枯渇、その利権獲得のための戦争といった様々な問題も生まれてきたのだとも。経済の定義そのものを捉えなおさない限り、これらの問題は消えないと言える。


でもだからと言って、社会主義を良しとしているわけでもないところが、味噌。社会主義は、経済の領域に「自由」という、本来精神生活の領域で追求されるべき理想を混じりこませるという間違いからは、確かにまぬがれている。でもその代わり、「平等」という、本来法生活の領域で追求されるべき理想を、経済の領域に混じりこませるという間違いをおかしてると考えるわけです。


そんなことを聞くと、あなたたち、政治的に右、左、どっちなの?と言いたくなりますよね。


強いて言えば、アナキズムに近いのかな? レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で描いたような、災害時ににわかに現れる、国家からも企業からも独立した助け合い共同体みたいな。社会三分節論者にとって、経済は、あくまで、すべての人が、すべての人を思いやり、助け合うことで成り立つ領域。分配は、トップダウンに平等になされるというより、困っている人はいないか、周りに目を配ることから、自然となされなきゃいけない。贈りものを返礼しあうことですすむギフト・エコノミーは、その点、この友愛の理想の真骨頂を表してるといえます。


互いが互いを思いやり、必要なものを分け合い贈りあうギフト・エコノミーだけで経済が成り立つといいのですが、社会の現状では、私たち完全に無私のいい人たちばかりとは、なかなかいえない。傷つきやすい体を引きずってますし、自己保存本能やエゴイズムから免れられません。なわけで、そこに公平さ、フェアネスがちゃんとあるか、客観的に外から判定する必要が生じます。で、出てきたのが、お金です。


ただ社会三分節論では、お金は、経済ではなく、法の領域にあるものだとされていることが、とても重要なポイント。公平さ、フェアネスを判定するのは、平等の理想を掲げる法の領域になければならないからです。


みんな仲良くするのが理想だけど、争いが生じたら、法で裁く必要も出てきますが、法の領域にはそんな必要悪のようなところがあります。お金もそれに似ていて、ギフト・エコノミーの理想だけでやっていけるので必要なければ、それに越したことはないけれど、いつの間にか不公平がたまって、不満を募らせる人がいるのが現状なのだとすれば、使う必要がある。


そこから、お金は、公平さを実現するためだけの法の道具であり、それが実現されたら、速やかに消滅すべし・・・というもう一つの、ちょっと風変わりですが、とても重要な要請も出てきました。蓄財を不可能にするための様々な仕組みを凝らしたお金のシステムについての考察も重ねられることになりました。例えば、プラスの利子の代わりに、マイナスの利子がついていて、徐々に消滅していくお金だとか、期限が来たら、いつもリセットされるお金などなどのアイデアが生まれましたが、それらは地域通貨として実験を重ねられていますよね。実際、平等を理想とする法の領域にあることを考えても、お金を権力の道具にするのは、まずい。そのことを考えても、蓄財は、あってはならないことになります。ましてや、お金そのものを売買対象にするのも、タブーです。法の領域にあるものを、それ自体を売買の対象にしたら、公平さ、天秤の役割が果たせなくなってしまいます。


思いやりを理想とする経済が感情の世界と対応するのに対して、平等を理想とする法の領域は、物質的な身体と対応しています。誰しもみんなひとつひとつの身体を持って、一定のスペースをとって、物理的に存在している事実は、確かに「平等」なことですよね。そこから、身体を住まわせる物理的な空間、土地は、法の領域に属するという別の命題も出てきます。他の生活必需品は、経済の領域で、売買することができますが、土地だけは、私たち誰しも持っている身体を住まわせる平等な生存の基盤なので、売買対象にしてはいけない。もちろん、その土地を生かして、農業やものの製造などさまざまなことができます。その成果を売買するのは、かまわないのだけれど、土地は、そうした一切の活動の基盤であり、私たちすべてが平等に持つ身体を住まわせる場所なので別格だというのです。サンフランシスコに住んでいた時、地価高騰により、住み慣れた場所を追われたり、いつまでいれるかわからない不安定な契約の場所に住むことを強いられているジェントリフィケーションの被害者に何人か会いました。住処を取り上げられるのは、他のものを取り上げられるのとは、全く、レベルが違って、みなさん、身体をぐさっと突き刺されたような、存在レベルでの苦しみを抱えているように思いました。住居は経済というより、基本的人権の問題のはずだって、つくづく思いました。


法の領域に属するので売買対象にしてはいけないといえば、お金そのものもそうです。


マイケル・ポランニーは、近代のあらゆる問題の原因を、資本主義自体にではなくて、その中で、お金、土地、労働そのものまで売買対象になったことが悲劇の始まりだったと『大転換』の中で言ってますが、社会三分節論からも、全く同じことが言えます。


というのも、労働についても、シュタイナーは似たようなことを言ってるからです。労働の「成果」は、経済の領域でいくらでも取引、分配の対象にできる。でも「労働そのもの」は、本来、自由を旨とする精神生活の領域に属するものなので売買対象にしてもならない。これも、シュタイナーはいろんな著作で繰り返し説くところです。というのも、労働とは、ものの価値を作ること。価値創造は、精神生活に属することだからです。


今の世の中、「労働市場」なんて言葉もあるくらいで、「自分の労働」を売ることに私たちはすっかり慣れっこになっていますが、でも少し考えてみると、そもそも、私たちが、自分が好きなように、自分のペースで、自分の理想のために働くことができないのは、「自分の労働」を売っているからじゃないでしょうか? 労働の成果だけを売っているのなら、独立した職人が、こだわりの成果を市に出すようなもので、ずっと自由に働けます。ウィリアム・モリスやヨーゼフ・ボイスが唱えるように、すべての労働者がアーティストのように振る舞うことすらできるかもしれません。また、持続可能な未来のために、地球のために、将来の子供たちのために、個人として責任を引き受けながら、働き方を決めることもできるようになるでしょう。労働そのものではなく、労働成果のみを売買対象にする労働者達からなる世界といえば、ようするに、すべての人が、フリーランスになるようなイメージでしょうか? と言っても、分業しないとできないことはたくさんありますので、工場や会社のような共同作業の場は残るはず。でもそこには、経営者と労働者がいるというより、自由な、誇り高い、独立した職人たちの連合体がある。ドイツで同時期に出てきたバウハウスなども少なくとも初期は、中世のカテドラルを作った職人連合などをモデルにしながら、同じようなものを理想にしていました。


精神生活の領域に属するものを、経済の領域の影響下に置いてはいけないということも、社会三分節論から出てきますが、これも、今は、ほとんど守られていません。メディアが流す情報は、コマーシャルの利害関係のバイアスがかかっているものがほとんどで、何を信頼していいのか、途方に暮れてしまう状況ですよね。学術レポートを読んでいるかと思うと、実はそれは、特定のものを買わせるための広告だったみたいな不信感がつきものです。自由な真理の探究という精神生活の理想が、経済的な利害関係の下では、追求しようがなくなってきている一例です。また今は少なくなったけど、国家権力の圧力、検閲なんかも、法の領域の圧力が精神生活にかかった例だといえます。平等という法生活の理想が、精神生活を圧迫する今よくあるバージョンは、アートプロジェクトなどが行政主体で行われるうちに、「誰しもわかるように」、「バリアフリーに」とどんどん譲歩させられて、正体不明になったりすることかしら。


ルドルフ・シュタイナーも、ヨーゼフ・ボイスも、社会が有機体として、社会三分節論の観点からみたときいかに病んでるかを強調していました。自由な精神生活、平等な法生活、博愛の経済生活がそれぞれ独立しながら対等に相互作用するのを健やかな社会だと考えるとき、今の社会がどんなに病んでいるかも見えてきます。一言で言えば、経済が強すぎ。しかもその経済そのものが、精神生活の原理で動いている。また、精神生活が弱すぎで、法の支配化にあったかと思えば、今度は経済生活の圧力下で息絶え絶え。もつれた糸をどこから解いていけばいいのか、気の遠くなりそうな作業です。



# by makikohorita | 2016-08-19 16:30 | ギフトとしての仕事
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