例えばイエス・キリストが本当にいたかを実証的に調べている人たちがいる。仮にそんな人、歴史的に実在していなかったことが分かったとしても、だからと言って、彼にインスパイアされたり、彼の名の下にこれまでなされたこと全体の重要性(あるいは深刻性)が消えるわけではない。
スピリチュアルに生きるということは、私たちの様々な「思い」から、どんな世界が、今、生まれつつあるかを、日々、少しずつ大きくなる赤ちゃんを見守るように、大切に見守ること。それがとてもいいものだったら、もっと健やかで豊穣なものになるように助けの手を差しのべたり、育みに参加することじゃないかって思う。
「事実はどうなの?」「客観的に存在したの?」とジャッジするとき、私たちは、そこから自分を切り離す。ジャッジメントは、強力な切断力で、自分を相手と切り離すナイフのようなもの。ジャッジする人は、相手を貶めることで、自分が優位に立てると思って、ほとんど知らない領域にまでしゃしゃり出て判定を下そうとすることもしばしば。自分こそこの現実の全能の作者だといいたげだ。でも、実際にはジャッジして現実を決めつけるほど、そこから新しいことを学ぶチャンスも失われ、その人の現実は一面的になっていく。気がついてみたら、紙でできたおもちゃの国の王様だった・・・みたいなことになりかねない。
そうやって自分を切り離す代わりに、そこに働く創造力につながり、参加するのが、スピリチュアルな態度だと思う。それがどんなに欠陥だらけに見えても、その欠陥をどう生かして、素敵なものができるかを考え、即、行動に移す。病んでる人を見ても、そこにも刻々と働き続けている生命力の方に注目して、これを促すためにできることを、何でもする。同情して一緒に落ち込んだり、「これはひどい」といジャッジして、そこから自分を切り離す隙をうかがう暇なんてどこにもない。ワンネスとは、神秘的な合一感である前に、まずは実践的なものなんじゃないかって思ってる。
「思い」の創造力
しかしどんなひどい状態を目にしても、そこに良きことが生まれつつある様子を見とどけたり、促したりできるようになるためには、焼け野原の大地を目にしても、足元に顔を覗かせるちっちゃな雑草に気づき、注目するような、生命に対するするどい感受性を培う必要がある。人の「思い」、夢が持つ創造力に対する、絶対的な信頼もいる。
「思い」こそが現実をつくっていると、アナスタシアも強調している。十分なエネルギーを注ぎこまれ、五感に訴え、ふさわしい感情をかきたてるイメージになるほど具体的に、かたどられた思いは、そこから新たな現実が生まれる卵、胚珠のようなもの。自律した生命を持ち、生き生きと、息づき始める。それは、遅かれ早かれ、物理的な現実に現れざるを得ない。
だから、もしそこに、純粋で、愛情深い、すばらしい思いに満たされたイメージがすでにあって、それに対応する現実が今のところ見つからなくても、それは大したことじゃない。「夢物語だ!」などといって否定するなんてもってのほか。逆に鼓舞して、応援してあげるべきなのだ。とくにそれが、これからどんな形でも取り得る、生きたものの成長に関わる場合には!「キリストを生んだと心から信じる親たちが、キリストを本当に育て上げる」と、別のところでアナスタシアがいったように。それは、現実に反しているのではなくて、現実になるために、もう少し時間と、エネルギーがいるだけに過ぎないのだから。
そのことを考えても、あるイメージが、現実に実在するのか?という問いは、ナンセンスになる。だってそのイメージは、今、現に「実在」して、私たちを動かしているのだから。私たちがそれを繰り返し思い出して、そこに十分なエネルギーを注入すれば、遅かれ早かれ、物質的な現実にも反映されるのだから。
実際、「ものが大切か、思いが大切か?」という問いに、「思い」と答える人がほとんどだとしても、実際、そのことを日々の生活に落とし込んで、行動であらわしているひとはといえば、ずっと少ないように見える。
とくに、科学的な事実や実証が問題になる場面では、物理的現実にまだ反映されておらず、だからそれと対応していない思いは、素気無く切り捨てられてしまいがち。「思い」の方が大切だと思ってるのなら、そんな人に対しては、こういうべきだろう。「もう少し待って。そして疑わないで。そしたらきっと、物理的現実にも反映されるから」。
私個人としては、客観的に、事実を捉えようとして、みすぼらしい現実を塗り固めるよりも、とにかく最高のイメージをつくって、その現実性を決して疑わないでいたい。それを強く念じて、それが実現したようすを全身で感じて、焼け野原に生えた最初の雑草のようなそのどんなに小さな萌芽も見逃さず、大喜びして、励ます! そうやって、そのイメージにたえず、確信という創造のエネルギーを注ぎこみ、ある日、必ず、堂々とした現実としてまかり通るようになるのを待つ。夢をひたすら望み、その「客観性」だとか「現実性の有無」と言った余計なことは考えない、いたってシンプルだ。
日本では教育法で有名なルドルフ・シュタイナー。神秘思想家としての彼に親しんでいる人も多いようですね。でも彼が首尾一貫した独特の社会思想の提唱者であったことを知る人は少ないかもしれません。ドイツ、ヨーロッパで、オルタナティブ・コミュニティではかなり影響力を持っています。私はボーデン湖を挟んで、向こう側はスイスの南ドイツ、アッハベルクで、ヨーゼフ・ボイスの思想的な弟子、ライナー・ラップマン主催する「社会彫刻研究会」に何度か参加しましたが、そこでは、例えば学生紛争時代のマルクスのように、シュタイナーの社会三節化について、口角とばして熱論を交わす人たちにたくさん会いました。
日本では、例えばヨーゼフ・ボイスの「クリエィティビティこそ資本」とみなす考え方や、地域通貨ブームの引き金にもなったNHK特集番組『エンデの遺言』、『エンデの警鐘』で紹介されていた、作家ミヒャエル・エンデの経済観の形で、時々その片鱗を垣間見た人も多いはず。彼らの考え方の背景には、シュタイナーの影響が色濃くありますから、彼らを通して、知らないうちに、親しんでいるという人もいるかもしれません。
シュタイナーの社会思想の基本は、社会は、互いに全く異なり独立しているものの、密接に絡み合い、相互作用しあう三つの部分からなっているという考え方です。それは、精神生活、法生活、経済生活と呼ばれるもので、フランス革命の謳い文句になった自由・平等・博愛は、この三つの部分のそれぞれの理想状態を実は表していたとか。つまり精神生活は自由、法生活は平等、経済生活は博愛を目指している。それぞれの部分が、それぞれの理想を体現しながら相互作用する社会は健やかな社会といえる。
ただ問題は、現代、そういう社会は稀なものになっていること。特に経済の領域に問題が集中しているのですが、それは、「経済の理想が博愛?」と聞くと、吹き出したり、首をかしげる人が多いことからも明らかと言えるでしょう。ここで言われる「博愛」はすべてのものへの思いやり。すべての人に、生きていくのに必要なものが十分いきわたるように分かち合うことです。エコノミーの語源は「家計」だそうですが、主婦が家計をやりくりするように、飢えた人、困窮した人が出ないように、将来の変化も予期しながら、効率よく、無駄なく、コミュニティ全体に必要な物資がいきわたるようにはからうことが、社会三分節論では、経済の理想とされています。ようするに、シュタイナーによると、経済は本来、競争原理とは異質の領域だってことになります。また、何でも好きなものを、好きな時に、いくらでも売買できるという、今の私たちが、普段、当然視してる「自由」も、経済の領域には、本来、あってはならないもの。だってそうすると、生態系を破壊したり、社会的弱者の人たちに負担がかかってきますからね。持続可能でないだけでなく、第一に、経済の理想である博愛、すべてのものへの思いやりがないがしろにされますからね。
社会三分節論では、自由競争の原理で動く私たちの資本主義経済は、本来、精神生活で追求されるべき理想を、経済の領域というお門違いな場所で、追求していると考えます。そこから、環境破壊、資源の枯渇、その利権獲得のための戦争といった様々な問題も生まれてきたのだとも。経済の定義そのものを捉えなおさない限り、これらの問題は消えないと言える。
でもだからと言って、社会主義を良しとしているわけでもないところが、味噌。社会主義は、経済の領域に「自由」という、本来精神生活の領域で追求されるべき理想を混じりこませるという間違いからは、確かにまぬがれている。でもその代わり、「平等」という、本来法生活の領域で追求されるべき理想を、経済の領域に混じりこませるという間違いをおかしてると考えるわけです。
そんなことを聞くと、あなたたち、政治的に右、左、どっちなの?と言いたくなりますよね。
強いて言えば、アナキズムに近いのかな? レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で描いたような、災害時ににわかに現れる、国家からも企業からも独立した助け合い共同体みたいな。社会三分節論者にとって、経済は、あくまで、すべての人が、すべての人を思いやり、助け合うことで成り立つ領域。分配は、トップダウンに平等になされるというより、困っている人はいないか、周りに目を配ることから、自然となされなきゃいけない。贈りものを返礼しあうことですすむギフト・エコノミーは、その点、この友愛の理想の真骨頂を表してるといえます。
互いが互いを思いやり、必要なものを分け合い贈りあうギフト・エコノミーだけで経済が成り立つといいのですが、社会の現状では、私たち完全に無私のいい人たちばかりとは、なかなかいえない。傷つきやすい体を引きずってますし、自己保存本能やエゴイズムから免れられません。なわけで、そこに公平さ、フェアネスがちゃんとあるか、客観的に外から判定する必要が生じます。で、出てきたのが、お金です。
ただ社会三分節論では、お金は、経済ではなく、法の領域にあるものだとされていることが、とても重要なポイント。公平さ、フェアネスを判定するのは、平等の理想を掲げる法の領域になければならないからです。
みんな仲良くするのが理想だけど、争いが生じたら、法で裁く必要も出てきますが、法の領域にはそんな必要悪のようなところがあります。お金もそれに似ていて、ギフト・エコノミーの理想だけでやっていけるので必要なければ、それに越したことはないけれど、いつの間にか不公平がたまって、不満を募らせる人がいるのが現状なのだとすれば、使う必要がある。
そこから、お金は、公平さを実現するためだけの法の道具であり、それが実現されたら、速やかに消滅すべし・・・というもう一つの、ちょっと風変わりですが、とても重要な要請も出てきました。蓄財を不可能にするための様々な仕組みを凝らしたお金のシステムについての考察も重ねられることになりました。例えば、プラスの利子の代わりに、マイナスの利子がついていて、徐々に消滅していくお金だとか、期限が来たら、いつもリセットされるお金などなどのアイデアが生まれましたが、それらは地域通貨として実験を重ねられていますよね。実際、平等を理想とする法の領域にあることを考えても、お金を権力の道具にするのは、まずい。そのことを考えても、蓄財は、あってはならないことになります。ましてや、お金そのものを売買対象にするのも、タブーです。法の領域にあるものを、それ自体を売買の対象にしたら、公平さ、天秤の役割が果たせなくなってしまいます。
思いやりを理想とする経済が感情の世界と対応するのに対して、平等を理想とする法の領域は、物質的な身体と対応しています。誰しもみんなひとつひとつの身体を持って、一定のスペースをとって、物理的に存在している事実は、確かに「平等」なことですよね。そこから、身体を住まわせる物理的な空間、土地は、法の領域に属するという別の命題も出てきます。他の生活必需品は、経済の領域で、売買することができますが、土地だけは、私たち誰しも持っている身体を住まわせる平等な生存の基盤なので、売買対象にしてはいけない。もちろん、その土地を生かして、農業やものの製造などさまざまなことができます。その成果を売買するのは、かまわないのだけれど、土地は、そうした一切の活動の基盤であり、私たちすべてが平等に持つ身体を住まわせる場所なので別格だというのです。サンフランシスコに住んでいた時、地価高騰により、住み慣れた場所を追われたり、いつまでいれるかわからない不安定な契約の場所に住むことを強いられているジェントリフィケーションの被害者に何人か会いました。住処を取り上げられるのは、他のものを取り上げられるのとは、全く、レベルが違って、みなさん、身体をぐさっと突き刺されたような、存在レベルでの苦しみを抱えているように思いました。住居は経済というより、基本的人権の問題のはずだって、つくづく思いました。
法の領域に属するので売買対象にしてはいけないといえば、お金そのものもそうです。
マイケル・ポランニーは、近代のあらゆる問題の原因を、資本主義自体にではなくて、その中で、お金、土地、労働そのものまで売買対象になったことが悲劇の始まりだったと『大転換』の中で言ってますが、社会三分節論からも、全く同じことが言えます。
というのも、労働についても、シュタイナーは似たようなことを言ってるからです。労働の「成果」は、経済の領域でいくらでも取引、分配の対象にできる。でも「労働そのもの」は、本来、自由を旨とする精神生活の領域に属するものなので売買対象にしてもならない。これも、シュタイナーはいろんな著作で繰り返し説くところです。というのも、労働とは、ものの価値を作ること。価値創造は、精神生活に属することだからです。
今の世の中、「労働市場」なんて言葉もあるくらいで、「自分の労働」を売ることに私たちはすっかり慣れっこになっていますが、でも少し考えてみると、そもそも、私たちが、自分が好きなように、自分のペースで、自分の理想のために働くことができないのは、「自分の労働」を売っているからじゃないでしょうか? 労働の成果だけを売っているのなら、独立した職人が、こだわりの成果を市に出すようなもので、ずっと自由に働けます。ウィリアム・モリスやヨーゼフ・ボイスが唱えるように、すべての労働者がアーティストのように振る舞うことすらできるかもしれません。また、持続可能な未来のために、地球のために、将来の子供たちのために、個人として責任を引き受けながら、働き方を決めることもできるようになるでしょう。労働そのものではなく、労働成果のみを売買対象にする労働者達からなる世界といえば、ようするに、すべての人が、フリーランスになるようなイメージでしょうか? と言っても、分業しないとできないことはたくさんありますので、工場や会社のような共同作業の場は残るはず。でもそこには、経営者と労働者がいるというより、自由な、誇り高い、独立した職人たちの連合体がある。ドイツで同時期に出てきたバウハウスなども少なくとも初期は、中世のカテドラルを作った職人連合などをモデルにしながら、同じようなものを理想にしていました。
精神生活の領域に属するものを、経済の領域の影響下に置いてはいけないということも、社会三分節論から出てきますが、これも、今は、ほとんど守られていません。メディアが流す情報は、コマーシャルの利害関係のバイアスがかかっているものがほとんどで、何を信頼していいのか、途方に暮れてしまう状況ですよね。学術レポートを読んでいるかと思うと、実はそれは、特定のものを買わせるための広告だったみたいな不信感がつきものです。自由な真理の探究という精神生活の理想が、経済的な利害関係の下では、追求しようがなくなってきている一例です。また今は少なくなったけど、国家権力の圧力、検閲なんかも、法の領域の圧力が精神生活にかかった例だといえます。平等という法生活の理想が、精神生活を圧迫する今よくあるバージョンは、アートプロジェクトなどが行政主体で行われるうちに、「誰しもわかるように」、「バリアフリーに」とどんどん譲歩させられて、正体不明になったりすることかしら。
ルドルフ・シュタイナーも、ヨーゼフ・ボイスも、社会が有機体として、社会三分節論の観点からみたときいかに病んでるかを強調していました。自由な精神生活、平等な法生活、博愛の経済生活がそれぞれ独立しながら対等に相互作用するのを健やかな社会だと考えるとき、今の社会がどんなに病んでいるかも見えてきます。一言で言えば、経済が強すぎ。しかもその経済そのものが、精神生活の原理で動いている。また、精神生活が弱すぎで、法の支配化にあったかと思えば、今度は経済生活の圧力下で息絶え絶え。もつれた糸をどこから解いていけばいいのか、気の遠くなりそうな作業です。