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草の根文化の苗床

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手放せば手放すほどゆたかになる不思議

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                        時空の宿の大きな庭

仕事を辞めてから、一つ新しく学んだことに、計画を立てるのをやめたことがある。
きっかけは、今年になってから始めている『奇跡のコース』のワークブックレッスン。これは、1年を通して、毎日、与えられた題目について瞑想し続ける、瞑想マラソンのようなもので、最初は朝夕1分ずつの指定が、少しずつ長くなって、今、私がやっている半分をちょっと過ぎたところでは、1時間ごとに5分やることが求められている。ここまでくると、かなり意識が変化してくるので、次にはどんな状態が待っているか、面白くてやめられなくなり、今に至ってる。

その瞑想のお題目の中に、計画を立てることを放棄しなさい、というものがあった。計画を立てようとするのは、物事をコントロールしようとしてやまないエゴの仕業だからだとか。書き込みでびっしりのスケジュール帳をいつも持ち歩いていた私としては、ショッキングなレッスンだったけれど、その分、先に何が見えるか、好奇心が湧いてきたので、厳密に実践してみた。

特に面白かったのは、計画を立てないと、暇で仕方がなくなるかというと、全然違うこと。
計画するのをやめた空白をねらって、やるべきことが、向こうからやってくるからだ。それは1時間ごとにやる5分瞑想の後だったり、夜はっと目が覚めた後だったりするのだけど。そこで思いついたことを一つ一つやるだけで、すぐに日が暮れてしまう。

これに対して、計画通り、与えられた注文通りにいざ何かやろうとすると、なかなか進まず苦しい作業になることが多い。

でも、その時その時に閃いたことをやるという、このやり方ですすめると、とにかく楽に、流れるように進み、渡りに船のようなシンクロニシティも起きやすくなるし、まず、息詰まるということがない。計画を周到にして、1日1日のノルマを決めて仕事をしていた時よりもずっと生産的になってる。

また、人との約束をすっぽかすようになるかというと、そうでもない。逆に、その一つ一つが、乙姫が年に一度、牽牛に合うような、待ちわびた感動的な祝祭のように思えてきて、身構えているので、忘れようがない。

信頼して手放すことでできた空白ほど、ゆたかなものが宿るところはないことには、本当に驚かされっぱなし。

これには、豊かさを追うのを放棄すると、豊かさがやってくるという、別バージョンもある。

2年前に仕事をやめてから、私は定収入がまったくなくなってしまった。今もそう。でも、貧しくなったという感覚がまったくない。精神論ではなく、実際にそうだから。

まず、タダで家に滞在させてくれる友達が2人ほど現れた。そのどちらもすばらしい環境で、思索にふけり仕事に集中できる適度な孤独と静けさ、綺麗な湧き水や無農薬、オーガニックの食べ物へのアクセスなど、必要なすべてのものが、ゆたかにそろっていて、好きなだけ使うことができる。ただ違うのは、それらはすべて私のものとして所有していないだけ。いま、現在、使うことはできるけれど、将来の保証はない。でも今、現にこんなにしあわせでゆたかな生活ができれば、なぜ将来のことを煩い、保証を得る必要があるんだろうって思う。

それで、ますます今のゆたかさを思いっきり満喫。感謝して、お返しに、いい話ができるように、あっただけで気持ちが明るくなるような祝福できる人でいつづけるように、瞑想に励み、楽しく仕事を続けてる。

そんなふうに、手放せば手放すほどゆたかな今が手に入る。これも私が最近入り込んだ本当に不思議な流れだ、

不思議を不思議なまま満喫するのも悪くないけど、なぜそうなるのか、あらためて考えてみる。

まず、雇われ仕事をやめたことで、しなきゃいけない束縛がぐっと減り、時間だけでなく、心に余裕ができた。それにつれて、人間関係を大事にして、ひととしっかり、丁寧に向かい合うことができるようになったせい。

安定した職について、未来をコントロールするのをやめると同時に、人間関係も利害関係でコントロールするのをやめてしまい、なるだけ、すべてのひと、すべての出会いがひとしく大切に見える自由なところに身をおいてる。そうすると、心と心が芯からよろこぶような純粋な出会いができるようになる。

すると、愛とつながりが充満した、あったかいご縁が縦横無尽につながる世界の住人になれる。その中からいろんなものがまわってくるようになる。たとえば今私がいる時空のやどもそうだ。

この宿の始まりは、ログハウスに住みたいねとかねがね話していた私の友達のカップルが、くるみの木の苗をいらないかと声をかけてくれた脱原発廃炉の会で出会ったおばあさまの家に、苗をもらいに行ったこと。するとその家の敷地にログハウスが建ってる。亡くなった大学教授の旦那さまが、学生たちが泊まり込みで研修できるようにつくった家の離れのログハウスで、もう使わないので売りに出したところだという。そこで私の友人カップル、買うお金はないけど、貸してくれますかと交渉し、安い値段で借りて住み始めた。もともとみんなのために作られた場所なので、みんなになるだけ開放して、イベントに場所提供しているうちに、人がワイワイ集まる場所になってきた。遠くから人がくることもあり、宿泊場所を提供するには、でもログハウスだと手狭。すると、そのおばあさまが、同じ敷地内に建っている母屋の方も借りて使ってくれないかと提案。私の友人はお金のない国の構想に夢中になっていて、ではこの家を「お金のない国」のはじまりにして、泊まる人から一切、お金を貰わない代わり、何かその人の才能をつかったお礼をそこにおいてもらうポリシーで運営したいと話すと、おばあさまのほうでも、そういうつもりなら、家賃は一切いらない、好きに使ってくださいとのこと。ずいぶん長い間空き家だったせいで、とてもすぐに住めるような状態ではなかったけれど、友人連の協力できれいにお掃除。先月「時空のやど」という名前でオープンしたばかり。

私はここに好きなだけ滞在しながら、そこの記帳に英語で感想を書いていった人の文章を日本語に翻訳したり、『奇跡のコース』のお話をしたりして、返礼してる。お話会にこれまで来てくれた人の中に自然食品店を経営しているひとがいて、そこからのオーガニックの食料品が台所にぎっしりつまってるし(いただいたものなのか、友人が買ったのかは不明)、お惣菜をおすそ分けにきてくれる人などいて、ここにきて3日目なのだけど、使ったお金は2〜300円くらいかな? なのに、とっても贅沢している感しきり。

このとびっきり贅沢で幸せな時間も、そのおばあさまと友人が出会い、友人と私が出会い・・・といったご縁のおかげだし、そこで繋がった人たちが、とびっきりの人たちだったせい。そもそもこの家が、築30年以上経った今も居心地良い住まいとしてあるのは、そのおばあさまと亡くなっただんなさまとの創造力と労働と、維持管理のおかげ。彼らの寛大さが、友人のギフト経済熱と出会って共鳴したおかげ。その友人には、お掃除手伝いにかけつけたり、オーガニック食材を分けてくれる人のご縁もあって、場所の気は本当にゆたかになるばかり。そしてその末端に、私も関わらせてもらってるおかげ。私と友人は、私の本で何より深く結びついてる。

そんなふうに愛とつながりがたっぷり充満した世界にいる限り、私たちは欠乏を知らない、豊かな世界にいきていけるってことのいい例になってる。

愛とつながり充満したご縁の複雑系に住み続けるコツは、
利害、保証など一切考えず、自分のすべてを贈り続けるのをやめないこと。
何かが足らないから、それを埋め合わせる動き方をしないこと。コントロールを放棄すること。特に人間関係。手放しながら、種から芽が出て、大きく育ってるか観察するように、生命と豊穣、増殖がすすむようにゆるく手綱をとるくらいがいいのかな。


# by makikohorita | 2016-08-18 15:17 | 新しい世界をつくる!

ギフト・エコノミー

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「自分でやる」領域を少しでもひろげようとするDIYは、依存や隷従をひろげる。行き過ぎた資本主義システムからの独立と自由を勝ち取るためのナウトピアンの秘密兵器。けれど、それに成功して、資本主義システムからの独立度が高まれば高まるほど、それに代わる生き方の選択肢として、彼らは次第に、今度は自発的になされるたすけ合いや自然のめぐみからなる別のシステムと深く関わるようになる。ギフト・エコノミーだ。

そこでの合い言葉は「おかげさま」とか「ありがたい」とか「生かしてもらってる」など。ようするに、「自分でやれ!」といったDIYの精神とは一見正反対の様相を見せる。けれど、DIY精神は、あくまで、「誰にも迷惑かけないように」心がけ、なんでもお金で解決する代わり、企業にだけはどっぷり依存した生き方から距離を保つためのもの。そこから身をもぎはなさないと、自然を持続不可能に痛めつけたり、「贈る」よりも「取る」ことばかり考えている既存のシステムにどうしても加担してしまうことになる。

でも、そこを卒業して、一つ一つ自分にできることが増えていくにつれ、次の段階として、それで「人の役に立ちたい!」と思うようになる。すると自然に、助け合いとギフトの暖かい世界があらわれる。困った時にはまず、業者に電話する代わりに、とりあえず、お友達に相談してみよう、あの人、こういうこと得意かも・・・というふうに。

ギフトの根っこ***
ギフトとはまず、誰の頭上にも降り注ぐ、太陽の光や雨に代表されるような、無条件の自然のめぐみ、神の贈り物のことをさす。これらのギフトあってこそ、私たちすべて、そもそも生きていける。全生活の基盤はこれでできているのだけど、その気前の良さ、ゆたかさ、与える相手を全く選ばず無差別なところが、すごい。もし人間がやってたら常軌を逸したものに映るはず。にもかかわらず、それは文字通りごくごく自然になされる。春は花々咲き乱れ、実りの秋にはどっさり果物が実るように淡々と、行われる。その様子は、私たち人間がなすすべてのギフトの鏡だ。また、このギフトを複雑に相互作用させながら、ゴミも出さず、すべて利用し尽くす循環の中で、持続可能に、あまねく行き渡らせていく生態系の仕組みは驚異的だ。

ギフト・エコノミーとは、このような自然のシステムを、なるだけそのままのかたちで人間の社会にも持ちこみ、延長させていくこころみだ。雨を降らせたからといって、太陽光を注いだからといって、自然はお金もあらゆる代償も一切取らないように、見返りなし、無条件にものをあげる。そんなことやって大丈夫なの? もらう一方で逃げてしまう人がでたらどうするの? と思われる方もいるかもしれない。「取る」「取られる」という発想で考える限り、交換がフェアになされるかが気になる。でも、「与える」ことが主体のギフトは、これとは全く別の原理で動く。

ギフトと交換は別の原理で動く***
この辺をはっきりしてくれるのが、ルイス・ハイドは『ギフト―—エロスの交易』の中で、等価交換はふつう、損得勘定がバランスすることで、決着がつき静止する性質を持つ。しかしギフトの贈与の際には贈り贈られた瞬間、勢いが生じ、贈与の輪が連鎖的に続くエネルギーを解き放つと述べた。 

動機が純粋になり、贈ること自体が自己目的の、見返りを求めぬギフトであればあるほど、そこで生まれる関係は、個人的なものになり、贈るよろこびも、贈られるよろこびも、最大化される。そのよろこびが、自ずとなされるお返しを動機づけるし、贈るよろこびの味をしめた人の更なるよろこびを動機づけていく。これこそ、旧い世界をつくる「利潤原理」に代わり、新しい世界をつくるインセンティブをなすもの。自己実現のよろこびとならんで、この与えるよろこびこそ、ナウトピアンたちを捲まず撓まず、せっせと働かせるエネルギー源となるものだ。
 
ギフト・エコノミーの流れを物質的なモノがめぐるとき、もちろん、そこには物質界の法則が当てはまる。ようするに、モノは手放しただけ減っていく。人の間をめぐる間に、破損、消耗はまぬがれない。でも、このモノと一緒にめぐる、気持ちや自信、能力の方は、ギフトが人の手から手に渡るにつれて、膨らみ、増大することしか知らない。こちらに注意を払えば払うほど、モノの方は、それをあらわす一種のシンボルにすぎなくなる。減ろうが、大したことない。それにあまりあるものが、私の中に残るから。多少壊れようが、大したことない。それが思い出を呼び起こし、味わいぶかくしているから。そうしてだんだん、まさに「お気持ちだけ」もらってもらい、いただく世界に、私たちは突入していく。

ギフトはつながるをつくる***
ギフトにはまたコミュニティ形成作用もあり、バラバラな人々や、バラバラな労働を一つにつなぐ働きもするとハイドはいう。等価交換の場合、二人の人は必要のために交換しているにすぎず、損得がバランスして、双方納得すれば、そこで関係はふつう解消される。つまりそこでは、二つのものも人も、バラバラなまま。分離のパラダイムが前提となっているといえる。これに対して、ギフトの、真心からなされる贈り贈られるよろこびの連鎖の興奮が通った後、人々はとても仲良しになっている。なぜか。ギフトの贈与にともなうよろこびは、互いが互いを増幅しながら、一つの大きなよろこびへと溶け合う性質を持つからだ。下心なく贈るよろこびが、まずは受け手のよろこびをよびさまし、それを目にすることで、自分のよろこびも増幅する・・・といった体の、 恊働にともなう相互的な鼓舞、感謝の贈り合いの伝染がある。そこでは与える喜びが受け取る喜びをしのぐことや、与えながら自分が実際自分が与えているのか受け取っているのか、定かでない気さえすることさえしばしばある。理想的な贈与の輪の中では、与えることと受け取ることは、未分化な、同じ一つのことなのだ。こうしてギフトは、バラバラになりがちな人々を、感謝と愛情の輪でつなぐ。

ギフト・エコノミーのまなび***
たとえば、受け手の側には、ただもう感謝する気持ちのほか、その前段階で、助けが必要な弱みを正直に見せながら、助けてくれる人におまかせする信頼感が必要だ。人によっては、まずはここが難しい。「甘えるわけにはいかない」とか、「迷惑かける気はない」とか、いろんなもっともな言葉で辞退するのだけど、奥にあるのは、一種のおそれ。でも、ギフト・エコノミーの実践で、少しずつでもこの不信のブロックを取りのぞいていくことができれば、人生一変するのはうけあいだ。困ったときに、助けてくれる人は現れるものなんだ。こうしたギフトの流れの中に身をおく限り、私たちは思ったよりも、ゆたかで欠如を知らない世界に住んでいるんだというなんとも言えない安心感が湧いてくる。私の場合は、健康状態まで良くなった。人に信頼しておまかせできるようになるにつれ、自然治癒力をもたらす気の流れにも、ひらかれていくからだ。 

ギフトを贈る方には、感謝されるよろこび、人の役に立てたという自信、この実践で動員されるスキルや知識もパワーアップする。人によってはこれがまたとても効くこともある。

贈り手のパワーアップという点で、一番すごいのは、giftという言葉が、贈り物という意味と並んでもう一つ持っている「才能」を贈ること。その人が一番向いた、本領を発揮できるフィールドで、その人にしかできない、その人ならでは、の個性的な貢献をすることだ。「取る」のではなく、まず「与える」のがモットーのギフトは、交換につきものの値踏みや競争関係につきもののジャッジメントが入りこみにくい分、自由で、成功しなきゃといったプレッシャーも少ない。これをうまく利用すれば、とっても個性的な表現もできるはず。

才能としてのギフトは、文字通り天与のもの。神さまからの贈り物だ。

「根っこ」に立ちもどることで、ギフトの輪を蘇らせる***
これに限らず、ギフト・エコノミーを生まれたばかりのようにみずみずしく、健やかで、活気ある、ゆたかな状態に保つには、やはり、そのお手本である神さまや自然のギフトの「根っこ」に、いつもしっかり根ざしながら贈り合いを続ける必要があると思う。

というのも、ギフト・エコノミーを続けていると、どうしても、これを「交換」として受け取る「エゴとしての私」が、もくもくと頭をもたげてくる。それにつれて、不公平感から、「私ばかり与えてる」自己犠牲感、疲れ、怒りといった暴力を潜伏させてしまう可能性がある。

そうした暗雲を振り払うために、最低限のルールを決めるのも、一つの手だと思う。でも、より根本的には、ギフト・エコノミーの「根っこ」をなす、太陽はどんな人の頭上にも光を与え続け、何の代償ももとめないこと。魚は泳ぎ、鳥は飛び、花は咲くというふうに、自然界のすべての生き物は、自然なままに振舞いながら、相互作用し、循環し、全体として調和と美を保っていることを思い出すことが一番だと思う。そこにあらためて手本を求めながら、自分のギフトも、その延長上にあるようにすること。そうすることで、このギフトの「根っこ」から汲み上げられた力が、ふたたびみなぎってくる。

才能のほかにも、贈り手の存在全体が伝わるならば、それはその人の中の神的な部分に根ざすので、この「根っこ」から汲み上げた力を、受け手に、また贈り手自身に、またその場を共有する人々に放射できるように思う。たとえば、贈り物にこめられた意図、いわゆる「気持ち」と一緒に、その人の人となり、健やかさや美しさ、無邪気さといったその人の「魅力」も一緒に伝わるもの。あるいは贈られる人と一緒に共有した時間を背負いながら、「今、ここ」にある、このコンテキスト全体を、一見それが、パーフェクトとは言えない問題だらけの状況でも、そこに調和と美を見出すのをたすけ、すべてをあがなう贈り物などなど。たとえば仲直りのための贈り物。平凡にしか映らなくなった共有の日常の中にかくれたよろこびにあらためて目を見開かせるものなどなど。

すこやかでゆたかなギフトエコノミーのなかでは、贈り物を受け取る方も、自然のギフト、天与のギフトといった、すべてのギフトの「根っこ」から、ふつふつと湧き出る力への感受性を研ぎ澄ませていくことが求められる。それは感謝する力だ。その感度が高まるにつれ、どんなささいなものも、塵も、道路にこびりついたチューインガムも、天国の影のさす美しさをたたえて見えてくるようになる。そうなると、何でもただただ、ありがたい。そうなってくると、その人は、受け手のみならず贈り手としても、この「根っこ」が透けて見えるものばかりを贈ることで、心底皆を喜ばせるギフトの名手になるはずだ。

いずれにしろ、ギフト・エコノミーは、なんでもお金で解決する行き過ぎた資本主義社会の中で心むしばまれ、不信や無力感にさいなまれる人たちに必要なまなびを提供する、とっておきの処方箋になるのは請け合いだ。
# by makikohorita | 2016-07-30 10:28 | 新しい世界をつくる!

満ち足りたところから、働く!

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不安や欠如感を埋め合わせるために、私たちはあらゆることをします。生きるためには頑張ってお金を得なければならない、愛されるためには努力して、素敵な人にならなきゃいけない。頼りにしている人に見捨てられないため、その人の好みのタイプにならなければならない、生活の安全のためには、安定した職につき、マイホームを購入しなければない、などなど。でも、そうした発想の根底にあるのは、いま、ここにある、ありのままの私ではダメだっていう自己否定。「ありのままの自分ではダメ」とあらゆる瞬間に自分に言い続けてるわけですから、その人が輝く日はいつまでたっても来ません。

「今」に生きることを飛び越えて、「未来」の心配ばかりしてる、といってもいい。そしてその心配の内容はといえば、過去の経験にもとづくものばかり。未来には何があるかわからないのに。そこで何かあたらしい、解放的な体験をするには、過去のことは忘れて、コントロールを手放した方がいいのに。

何事も我慢が肝心。そうすれば、いつか花が咲くのだから。好きなことして生きていけるなんて、わがまま言っちゃいられないと、私たち日本人の多くは信じこんで、滅私奉公。がむしゃらに働いてきました。しあわせに生きることより、そのための準備にかまけたり、そのための条件を整えるのに奔走して、一生終わってしまう。あるいは、そのうちに麻痺してきて、しあわせがなんだったかも忘れてしまい、みすぼらしいその代用品に大枚をはたいて満足する始末。

それは、せっかくパラダイスのような絶景が広がる場所を訪れながら、まわりを見てそれを味わう暇もなく、次に行く場所のことのこととか、お土産、すべて忘れずに買っただろうかとか、バスに乗り遅れないだろうか・・などと、心配ばかりしてる旅行者のようなもの。きょろきょろ、そわそわ落ち着かず、今、ここにくつろぐことができない。焦燥感や不安でいつも心を満タンにする苦労性が板について離れなくしまってるから。絶景は、「今、ここ」にしかないのに! そもそも、そのための旅、そのための人生だったはずなのに!

しあわせは、「今、ここ」にどっぷりくつろぎながら、まわりのものとのつながりをたしかめ、しずかでうつくしい調和をしっとり漲らせていく。その様子をしみじみ味わうことで、じわじわ感じられるもの。決して難しいことではなくて、とても自然なことでもある。やることといえば、深呼吸して、力を抜いて、「今」の中にすっと身をあずければいいだけなのだから。決意次第で、いつでも、どこでも、どの瞬間の「今」でも、手にいれることができる。別に絶景地にいかなくても、騒音のただ中でも、散らかった家の片隅でも、大丈夫。何にも心配する必要はないんだよ、うんと自分を甘やかせて、瞬間の感覚に身をまかせていいんだ・・とゆるすことさえできれば、どんな混乱の中にも、調和が感じられてきて、「わが家」のようにくつろぎ、安んじて棲みつけるようになる。そうすれば、しめたもの。しあわせ感がじわじわみなぎってくるのは、時間の問題です。

といっても、この話は、本人のしあわせだけの問題ではありません。

先ほど、私たちが、まわりのものと本当の意味でつながれるのは、「今、ここ」にじっくり沈潜するときだと述べました。

私が真に満ちたりて、「今、ここ」でくつろいでいるとき、感覚は身体の境界を越えてふわっと広がり、周りのものとつながる膨張性を帯びはじめます。

それこそ、しあわせ感の源泉ですが、そこには、そうやってつながったすべての人や生き物たちのことを、我が身のように感じながら、彼らもしあわせであることが、自分のしあわせの不可欠の前提としてふくまれています。つまり他者のいたみはわたしの痛み。私のしあわせの中には、まわりのみんなのしあわせ、地球のしあわせが前提としてふくまれてる。「世界のすべての人がしあわせにならない限り、個人のしあわせはあり得ない」という宮沢賢治の言葉は、今なおもって真実。この種のしあわせだけを追っかける人が増えたら、世の中、速やかに、本当に良くなるんじゃやないかって言える。

これを阻害するのが、「欲しがりません、勝つまでは」と、がんばることなのですよね。まわりのものとつながれる唯一の通路である「今、ここ」に蓋をして、過去や未来にばかりかまけて、焦ったり、心配して、あくせくしてる人は、つながり、共感したり、気づく能力を失って、ひとりよがりな思いこみの世界に生きることになりがちです。

実際、この手のタイプは、不安でじっとしていられないので、たいへんな働き者。いろんなものを作るし、企てます。

でも、人や自然や、すべての生きとし生けるものとつながる唯一のチャンネルである「今、ここ」にちゃんと腰をすえていることができないので、視野狭窄で、ひとりよがり。せいぜい、自分と同類の人たちとか人間のことしか考えることしかできません。まして地球の他の生き物と共感することはむずかしい。だから、地球全体から見ると有害なものをつくる可能性の方がずっと高くなります。

つまり、自分のやりたいことを押し殺し、否定、麻痺させて、滅私奉公する企業戦士たちは、当人がしあわせになれないだけでなく、周りのものもまきぞえにしてしまうのです。かくして、平気で環境を破壊したり、子供達の未来を奪ったりする仕事を平気で、延々と続けることもできるようになります。

たとえそこで、最新テクノロジーや、発明の才が発揮されても、その根底にあるのが、不便を解消しよう、もっと楽に、もっと効率的に、生産的になろうという発想です。つまり、「より良く」しようとあくせくすることで、ありのままの「良さ」——「今、ここ」で、まわりのものとつながるしあわせ感——を味わったり、大切にする回路がありません。「今」は、「欠如したもの」で、それを満たすために邁進しなければならないというのですから。

しあわせを知らない、ひとりよがりな人たちがつくったものなので、そこで何が作られても、本当の意味で私たちをしあわせにする力は持たないものばかり。原発は、そうやってできたものの代表例だといえるでしょう。これを作った人たちも、支え続けてきた人たちは、決して悪い人たちではなかった。自己犠牲的なまでの献身ぶりで一生懸命職務に励む誇り高い職人たちでした。でも、「今、ここ」にいる自分を大切にし、甘やかし、他の生き物たちや、地球全体とつながることだけは知らなかった。危険と汚染と背中合わせのエネルギーはいくらでも提供できても、生きとし生けるすべてのものとのつながりの回路から、愛のエネルギーを漲らせ、放射することはできなかったわけです。

この種の仕事からは、3.11を機にきっぱり足を洗いたいと思うのです。そうやってもちゃんと生きていけることを示すために、私はこのサイトをつくりました。

たとえば、私。2年前に安定した勤め仕事を辞めました。経済的な不安が全くないかというと、うそになります。でも、一つだけ死守したいと思うのは、この不安、焦りから、やりたくない仕事をするようなことは、一切合切もうやめようってことです。そうすれば、これまでと同じことを繰り返してしまうだけだから。

一見、「わがまま」に見えても、ただ単純に満ち足りて、しあわせでいたいという私たちの本音の方が、我慢、我慢を強いるこのシステムより、実はずっと正常だったことがわかったのですから。逆に、しあわせを手放しちゃいけない。というのも、このしあわせを通してはじめて、私たちは周りのものとつながるわけだし、このつながりの感覚こそが、私たちが地球に対して、未来の子供達に対して抱く責任感のはじまりなのだから。

じゃあ具体的にどうすればいいか。

理想主義的に聞こえるかもしれませんが、欠如感や不安からではなく、よろこびの充溢から仕事をすることもできると思うのです。「いま、ここ」にしっかりいることで、すべてのものとのつながりが感じられるようになると、おのずと、感謝の念や責任感がわいてきて、自分を与えたい、あますことなくすべて与え尽くしたい、そうして、よろこびにうちふるえながら、ひらききって、みんなとともにいたいという、恍惚的な気持ちが押し寄せてきます。それは一種の自己表現の衝動です。でも趣味やたしなみとしてなされるものよりずっと根源的な、存在に関わる表現衝動で、竹は竹、松は松として伸びていくように、自分の本質を内側から展開することで自分自身になるってことでもある。あるいは、動物が、自分の身体を延長させるように、それぞれ独特のパターン、リズムに浸された巣を自分のまわりに作っていくように、自分の世界を自分のまわりにはりめぐらせていく。そんな仕事です。そこで動員される自己表現の衝動は、なんとか食べて、サバイバルするため、衝動よりも強いと思うのです。力強い形を生み出すために、あえて形のない、保証のないところにふんばってい続けるたくましさもいりますが、そこから生まれてくることは、そこにしかない、どっしりした存在感と説得力、必然性のあるものになるでしょう。

自己表現としての仕事なんて。アーティストはいつの世も貧乏で、社会のはずれものだったじゃないという声が聞こえてきそうですね。それは狭義のアートが、個人主義的すぎたところに問題があったのではないかと思います。「自分の全てを、あますところなく与える」ところは共通していますが、それを「すべての人のために与える」点で、ちょっとやぶさかだったといえるかも。といっても、ケースバイケースだと思いますが。

充溢からはじまる自己表現としての仕事も、その成果を増殖せざるを得ないって思っています。といってもその増殖原理は、中核、希少なものの独占という欠如をひろげるがん細胞を養いながら、依存、隷属下にある人たちからお金をかき集めるような資本主義的な成長とは違ったものです。

物質的なモノの世界では、モノはあげるとなくなってしまいます。でも、アイデアや気持ちは、物質的な実在を持たない分、あげてもあげてもなくならない。というより、あげればあげるほど、自分のものになっていきます。教えることで、以前より理解が深まったとか、表現してはじめて、自分が何を感じていたのかはっきりした経験を持ったことある人は多いはず。実際、人をわくわくさせるような良いアイデアは、押し止めなく、人から人へとひろがっていかずにはいられませんが、たくさんの人を通して、そのアイデアには、いろんな解釈、新たな側面が付け加えられて、ゆたかになっていきます。これを増殖といわずに、なんと言いましょう。また、私意私欲のまじりっけなしの純粋な思い、愛をあげたら、それは何倍にもなって自分の元へもどって来ざるをない、逆に人を呪わば穴二つというのも、思い当たるふしのある人、多いはず。

こうしたインスピレーションや思いの増殖的な循環に、お金の流れがそうようになると、もう立派な仕事のできあがり。今、ここのゆたかさ、幸福感の充溢を分かち合う、自己表現衝動からはじまる仕事は、単なる精神論ではなく、ちゃんと仕事として成り立つこと。しかも、かなり成功する仕事としてなりたつことを、ここで示すことができればと思っています。
# by makikohorita | 2016-07-28 11:45 | ギフトとしての仕事

自分でやれ!

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「バイク・キッチン」というNPOのオルタナティブ自転車ショップがあるが、そこに壊れた自転車を持ち込んでも、原則として、修理してくれない。その代わりに、修理の仕方を教えるというサービスを提供するのである。「自転車乗りなら自分でやれ!」というわけだ。かくしてそのショップを出るときには、自分の乗り物の世話も自分でみれないまま、業者にべったり依存する消費者気質を助長させる代わりに、少なくとも、自転車に関する限り、自分で自分の面倒が見られる領域が広がって、すっかりエンパワーされる可能性がある。

それだけではない。自転車の修理の仕方を他の人に教えることで、同じように自立した人を増やすこともできる。
ものや知識が独占されることで、お金儲け、ひどい場合は不当な搾取の道具となることで、資本主義がまわっている。独占する方もよろしくないのは確か。でも、すっかり業者に「おまかせ」体質の人たちが加担し、支えてあげているからこそ、そんなこともできる。かくいうわたしも機械は苦手。マニュアルを読むのもおっくうなのだけど。おかげでずいぶん企業にお金をつぎこんできたなって思う。

資本主義は、専門技能の独占、生産手段の独占、希少性をテコにまわってる。「あれもない、これもない」「あれもできない、これもできない」といった欠如感をお金で埋め合わせる無力と表裏一体ですすむものだ。

これに対してナウトピアンは、一つ一つ自分でできることを増やしながら、着々と自信をつけていく。そして自分の身に着けたことを人にも伝えることで、その感動、よろこびを、他の人と分かち合おうとする。愛情たっぷりにわかりやすく、かみくだいて伝えられた知識は、人から人へと伝播していくことが見こまれる。

自分の足で立つ人の数と、できることも、それにつれねずみ算式に増えていくだろう。とどまることをしらぬ膨張するところは、資本主義下の資本に似ているけど、ここで成長するのは、貨幣でなくて、あくまで人だ。自分でできることが増えるにつれ、自信がつき、安心も増す。モノと違って知識技能は、そもそも、いくら与えても減るもんじゃない。それをモノのように独占して力の道具にしようなんてケチなことはやめよう。与えれば与えるほど、自分の力も増すし、よろこびも増すことだし。何といっても人を助けるのは気持ちがいい。希少なものを独占する人が、無力感や欠如感にさいなまれる人を食い物にしてすすむ資本主義の世界とはまさに真反対。ポジティブでゆたかな世界の勢力が、地に満ちていく。菌類たちとのように!
# by makikohorita | 2016-07-27 07:34 | ナウトピアへ 英語版スケッチ

無にたち戻る undo のすすめ

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 といってもどうしても、気分、体調がすぐれない時がありますよね。愛のエネルギーーの充電器ソファに身をゆだねようと思っても、雲がもくもく立ち込めて視界不良にしてるみたいで、なかなか見つからない。あるいは、そのソファそのものが病んでる。そんなどうしようもなくローな時、どうすればいいんでしょうか。

そんな時思い出すのは、わたしたちは普段「ものそのものを見ているわけではない」ということ。

たとえば、生まれて初めて、ある部屋に入るとしましょう。そこに家族写真らしい写真が飾ってある。そこに写ってる人に、知り合いはいない。だから先入観など入ることはないはずなのに、家族とこれまで、どんなことがあったかによって、人によってそれぞれ違う反応をすることになるでしょう。そこに写真があるのに気づきもしない人もいる反面、ノスタルジックな気分に浸ったり、切なさがこみあげてきたりする人もいるかもしれません。ようするに、わたしたちはものそのものを見るというより、記憶の集積をそこに見ているっていえます。

その記憶の多くは無意識なので、たまたまネガティブな記憶がたくさんたまっているところを刺激されたりすると、わけもなく気分がすぐれなくて、コントロール不可能・・・なんてことになりますよね。

でもそれってすべて、あくまでわたしたちの記憶。わたしたちが勝手にもののまわりに雲のようにもくもく覆いをかけているだけで、物自体(たとえば写真)が悪いわけではない。それに、呼び出したのが自分なら、退散させることもできるはず。

精神分析などだと、このとき暗雲のように視界をおおう記憶を、一つ一つ意識化して洗い出していくのでしょう。ただ、私は面倒なことが苦手。古い記憶にかかずらううちに、つきまとって離れなくなるのも怖いので、できれば一瞬で、ぜーんぶ手放して、きれいさっぱりお別れしたいって思うわけです。

というわけで、私のやり方は、「えいっ」と現実すべてから、身をもぎはなして脱皮すること。刀をふりかざし、自分とまわりの世界の知覚の接触面をえいっと切り離していく様子をイメージするのですが、さっさっと切り離すたびに、スカッとして、元気が出てきます。

といってもこれを自力でやろうとする限り、ここで刀を振りかざしているのも古い自分(お別れしたい現実の一部)に過ぎないというパラドックスがつきまとうのも確か。しかもそんなふうに、頑張る私、コントロールしようとする私は「エゴ」のなので、ヒロイックな高揚感は味わせてくれはしても、一時的なものだって思う。自分を特別視して、他を見下すような孤立の世界へ誘っていくおそれがある。と、またエネルギーが枯渇して、同じような憂鬱の雲がそのうち立ち込めてくるのは避けられないかもしれない。

だから、本気で現実を新しくするには、祈ったほうがいい。毘沙門天や大天使ミカエルなど、大きな刀をたずさえた宗教的なイメージ、原型に向かって、「今の現実の一切合財から、私を切り離してください。今自分が感じていること、巻き込まれているドラマから、私を切り離してください」とひたすら祈って、私自身は、コントロール放棄することで、小さなエゴさんから脱皮。ひたすら「おまかせ」して脱力しつくす。すると、大きな光の剣が、身体のまわりで振りかざされ、エーテルコードのしがらみの糸がどんどん切られていくのが感じられて、文字通り、雲が晴れたように視界が明るくなり、身体も軽くなっていく。

そのあとにあるのは、ひたすら感謝や愛が、身体の中からふつふつ湧いてくるような一体感。自力で頑張って、現実から身をもぎはなした時のようなヒロイックな征服感や、私は低次の世界から解き放たれたよといったエリート意識とか、ようするにエゴ特有の高慢な気分はそこにはない。

その代わり、怖い夢から目覚めて、ぽかぽか暖かくて、明るくて、安心できる世界をしっかり抱きしめてる。みんなと一緒に抱きしめて、つながりを再確認してる、そんな気分。それはわたしたちのホーム、ふるさと。もともと私たちがそこから生まれてきたところ、わたしたちの心身をまとめあげ、生き生きした状態に保ってくれる形成力として、いつもいつもそこにある。

これこそ、愛のエネルギーの源泉であると同時に、私たち自身の源泉。

それを「神」と呼ぶ人も多いけれど、この言葉で(それこそ「記憶」の暗雲がたちこめてきて)仰々しい気分になったり、おそろしくなる人がいるならば、別にその言葉にこだわらなくてもいいって思ってる。

寝てる時にもずっと進行中の新陳代謝をはじめ、「おまかせ」したままでもいつも進行中の生命のいとなみは、ちっぽけなエゴとしての「私」が逆立ちしても真似できるような代物ではない。ずっと心臓を動かし続けたり、消化器官を働かせたりなんて、意識してできるものではない。そんな生命全体をささえる「わたし」が、エゴとしての「私」をはるかに超えて、どの瞬間もささえてくれるおかげで、今現に自分が生きているってことは、どんなに懐疑的な人にとっても、うたがいようのないはず。またそうした生命のいとなみが、他のすべての生命と一体となり、支えあってこそ成立していることも、事実。「神」という言葉は、そんな生命のいとなみ全体をささえる「わたし」をさす言葉の一つといっていいでしょう。

そうした「わたし」に立ち戻ることで、私たちは癒され、自分を取り戻し、生き物が自分の体や巣を本能でつくりあげるような確かさと美しさ、自然さで、日々のいとなみ、天職としての仕事もつくりあげていくことができる。

ここから迷い出て、私たちはいろんなドラマやしがらみに引きずり込まれるわけですが、そのどの瞬間にも、決意次第で、そのすべてを今述べたようなやり方で帳消しにして、もと来た道をたどり直せる。それが、無へ立ち戻る、すべてを無かったことにする、undoです。

その道のりは、エゴとしての「私」を脱ぎ捨てることとパラレルに進む限り、コントロールを放棄して、ぐったり脱力、「おまかせ」するのは欠かせません。そうして「おまかせ」されたものを引き受け、生命の源泉につれていく橋渡し役として、天使をはじめとした人格のある自律した原型的な存在のことが古今東西、イメージゆたかに語り継がれてきている。それを利用しない手はありません!
# by makikohorita | 2016-07-18 19:08 | 新しい世界をつくる!
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