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草の根文化の苗床

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愛のエネルギー依存度あげよう

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(由仁実験芸術農場でとれたいちご)
化石燃料をつかったエネルギーや原発に頼りながら、これ以上エネルギーを浪費するのは持続不可能。これを機に、愛のエネルギーをもっと使おうよというのが、私たちの提案。愛のエネルギー? 眉唾? なんて思うかもしれないけれど、心をこめて、愛情たっぷりになされた仕事のおかげで、美味しい野菜や料理がつくれたり、問題だらけだった子供がすっかりおとなしくなったり、病気や怪我からの治りが早かったりするのを経験したことのある人は多いはず。人工物を作ったり、動かしたりするのは難しくても、人を含む生き物たちは、愛のエネルギーで動く。庭づくりや、農業、育児、教育、治療などの分野でいい仕事をしている人たちの隠れたエネルギー源になっている。行列ができるような美味しいレストラン、体の芯から癒されるスパなども、愛のエネルギーが集中してみなぎる場所だ。モノよりもそれがかもしだすよろこび、しあわせが評価され、産業の重点が製造業から情報、教育、ケアに移行していくこの時代、機械を動かすエネルギーよりも、育て育む愛のエネルギーで、実質上、世の中すでに動いてるって言えるんじゃないだろうか。このエネルギーをもっともっと作り出し、世界にみなぎらせることで満ち足りた人が増えると、不安から貪欲にかられる人もだんだんいなくなり、みんな今よりずっと少ない資源、物質的エネルギーで持続可能に生きていくようになるかも。

というわけで今日はこの移行をうながすためにも、愛のエネルギーのつくり方、育て方についてのヒントになるかもしれない体験談を少々。

柔らかなソファに身をゆだねるように・・・
私がこの愛のエネルギーを意識するようになったのは、3年ほど前に気功でアレルギーを治した体験が大きい。そのときの心身の変化に素直にしたがっていくと、これ以上勤め人生活ができなくなって、辞職したくらいドラマチックな変化だった。

そのとき。「あなたの体、とにかくものすごく緊張してる。ふっとゆるめてリラックスすればするほど、気のエネルギーが入ってきて、自然治癒力が活性するよ・・・と教えてくれた先生には本当に感謝している。とにかくあらゆる方法(うんと緊張させてさっと力を抜くとか、吐く息と一緒に、身体が液体になって沈み込んでいくのをイメージするとか)で、いつでもどこでも身体から力を抜くように心がけると、すさまじい涙、鼻水のデトックスがはじまり、はじめて半年経つ頃には、根強い目の充血も、片時も痛み止めを手放せなかったほどの眼精疲労からくる頭痛も、嘘のように消えてしまった。

そうやって症状が消えたあたりからもう一つわかってきたことがある。

自分でできることなんて何にもないので、おまかせします・・・と、力を抜けば抜くほどうまくいくというのは、あらゆることでいえること。自然治癒力が身体にみなぎってきて病気が治るだけじゃない。心の殻もとれて、対人恐怖の防衛感がなくなっていくので、人間関係もよくなる。人生のドラマ全体を一歩引いて外から眺めるような余裕もできるので、視野も広がり、ものの判断も間違うことがずっと少なくなっていく。

一言でいえば、とにかく楽。生きるために本当に必要なことって、ゆったりゆだねているときに、自動的に起こる。つまり、自分ですべきことなんて、何にもないことが、わかってくるから。

でも、だから怠けて何もしなくなるかというと、全くその逆。「生きていくのに本当に必要なことで、自分でできることなんて、何にもない、おまかせしよう」と思うと、楽になった分、余剰エネルギーがたっぷり生まれる。その余剰エネルギーが(比喩的にいってよければ)、目にするあらゆるものを、光でひたしていく感じなのだ。

なんでもない普段の風景が、どんどん美しく、愛おしく見えてくる。通りがかりの見知らぬ人が、わけもなくなつかしく、愛おしく思えてきたり、タゴールの言葉をかりれば、「塵さえ美しい」輝きに包まれて見えてきたり・・・

そうした気づきや体験は、当然、表現や行動をうながしていく。でも、そこには、無理に頑張んなきゃいけないといった強制感がぜんぜんない。それが、体を緊張させてぎゅっと縮めながら、エゴでやる仕事とは全く一番違うところ。

たとえば、この文章も、「書けたら書けたでうれしいけれど、書けなくてもいいし・・・」くらいの軽い気持ちで書いてる。書いているというより、おのずとできていってる感じ。だから力も入ってないし、ほとんど疲れない。

そんなふうに言うと、「霊感が降りてくる」「天才神話」みたいな、何かたいそうなことをしているように聞こえるけれど、全然そんな感じではなくて、呼吸をするようにごくごく普通の、まったく自然なことをしてるにすぎないって気がしてる。

逆に何か「たいそうなこと」をしていると思った瞬間、エゴが顔をもたげてきて、自意識過剰になってしまい、自然なことでも楽で楽しいことではなくなってしまう。増長したかと思えば、プレッシャーで一歩もすすめなくなったり、もうそんなアップダウンは、二度と繰り返したくないもんだ。

そうなりそうになっても、またまた、脱力。ふたたび世界を、人生を信頼してゆだね切り、あけわたせば、またいつものわたしに戻れる。

天職を続けるのは、鳥が空をとび、魚が泳ぐように自然なこと。何をしなくても、私たちが生きている限り果たし続けるもの。だから、変に使命感なんか持って身構えないほうがいい。

わたしにとって、それは書くことだけど、人によってその内容はさまざまだろう。そのときに動員されるのも、もちろん愛のエネルギーだ。

いくら脱力しているとはいえ、大まかなプランくらいは立ててる。といってもそれは、To Doリストをつくって、一つ一つDoneのチェックしていくように機械的に片付けたりするのとは違う。プランはモノではなくて、種とみなす。これからどう育っていくか、漠然とはわかっていても、実際はどんな展開になるかは予測もつかない。だから当然、そのために柔軟に対処する余地もつくっておく必要があるので、スケジュール帳は空白だらけ。

そんなわたしも以前は、なんとなくいつも根拠のない不安につきまとわれていて、「このままじゃだめだ」といつも焦ってキョロキョロして、身構えてた。時間を一刻も無駄にしてはダメだと、スケジュール帳は真っ黒。活字中毒で、食事中も本やパソコンのブラウザーをのぞくのをやめられない。善意で人が近づいてきても、攻撃されていると思わず身構えちゃうような被害妄想に付きまとわれていた。だからしょっちゅう目も充血。アレルギー症状につきまとわれていたんだってことも、今はよくわかる。

そうやって頑張っているときって、身体が傷ついているだけじゃなくて、キョロキョロしてるわりには視野狭窄で、ものの判断も狂いがち。息まいて頑張っているようで、生産性はきわめて低く、仕事そのものよりも「やんなきゃ」といいうプレッシャーだけで、クタクタに疲れてた(今は、「やんなきゃ」と思う前に生み出してる感じ)。執着はしても誰に対しても何に対しても、本当の意味で愛は湧かないので、当然、人間関係も支離滅裂。とにかくきつかったこと! 

エゴによるこの手の自己防御や抵抗はすべて解除して、周りを信頼して、自分をゆだねるのは、最初は、高いところからとび降りるようなめまいを感じさせることだけど、思い切ってやると、本当に気持ちよく、ふわっとうけとめてくれるソファが、そこにあるのに気づかされる。それはいつもいつもそこにあったのだけど、遠くばかりキョロキョロしてみてたので、気づかなかっただけだ。

そのソファは、エゴよりずっと大きなわたしだ。あらゆる否定も、区別も知らないので、自然の治癒力をはじめ、この世のありとあらゆるものの生命とひとつにつながっているわたし。愛のエネルギーの充電器のようなもの。いつも、どこにいても、そこにどっしり身をまかせ、くつろぐのをやめないで、これからも生きていきたいって思ってる。
# by makikohorita | 2016-07-13 12:19 | 新しい世界をつくる!

多数決を超えて

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私は、政治の一番基本のところには、すべての人、生き物たちとのつながりの感覚があるって思ってる。スピリチュアルなことを政治と一緒くたにするのは、諸刃の剣かもしれない。でも、この一体感なくして、全く利害関係を異にする遠いところにいる会ったこともない人や、まだ生まれていない子供たちのことをわがことのように案じて行動するって、少なくとも私にはできないから。

自分と近親者の立場しか眼中にない視野の狭い人に正しい判断ができるとは思えない。本当の争点はそこにある。

このつながりの感覚から見てみると、今の政治制度、いろんなところがおかしいって、つくづく思う。

たとえば、多数決の制度。51%対49%で決まるときなど、49%の人たちの意見が犠牲になる。つながりの体験が教えるのはしかし徹底的な非暴力。誰も犠牲にしてはいけない。1%の人々であれ、犠牲にするのはまずい。

それに、斬新的なアイデアは、一人の人、少数の人から始まるのも、私たちの経験が教えるところだ。ガンディーも次のように言っている。

ただ人数が多いからといって、多数派の意見に少数派が合わせなければならないと思っている人は、多数派の言い分は常に正しいという迷信にとらわれている。物事はまさにその逆ではないか。
これまでの歴史の中で、幾度となく繰り返されてきたように、
すべての改革は、少数派が多数派に反対することから始まっている。
(ガンディー『ヒンドスワラジ』)

多数決に頼らず全員意見が一致するまで、話し合うのが、非暴力のやり方。そのためには、10人程度の小さな集まりである必要がある。その単位で決めたことを、代表者が、また10人くらいの町内会規模の集まりで話し合い、そこで決めたことを・・・というふうに上に持っていけるのが理想だろう。

ハンナ・アーレントの『革命について』では、ほぼ同時期に起こったフランス革命とアメリカ独立戦争を比較。フランス革命が恐怖政治に終わり、その後もなかなか王政から脱却できなかったのに対して、アメリカは民主主義の樹立に成功したのは、アメリカの方にはそうしたローカルな小さな評議会がたくさんあっためだったと分析した。それは手間がかかるようだけど、そのプロセスで、たくさんの市民が議論に参加して、問題を自分のものにすることができる。だから一旦決議が出て、新しい法律などができたときにも、市民の理解が行き届いていて、積極的な協力が得やすい体制にある。斬新な政治体制はできても、民衆の意識は旧態依然としたままといったこともなくなる。

実は、こうしたアメリカ発民主主義は、ジェファーソンが、アメリカ・インディアンのイロコイ族の風習に習ったものだというのも、その後の研究でわかってきた。

ただ、独立戦争が終わり、憲法を起草する段階になって、ジェファーソンは、イロコイ族の風習にはまったく異質の要素を、そこに取り込んでしまった。イギリスの議会制度ですでに使っていた多数決のシステムだ。そこから、今回の選挙結果も含め、その後の一切の悲劇がはじまる。

でも、多数決をしないで、全員が意見の一致をみるまで話し合い続けるなんて非現実的じゃないの? と思う人も多いかも。

イロコイ族にはその点、秘密兵器があった。「儀式」だ。
話し合いの前に厳かに儀式をして気持ちを整え、私たちはここで、神々やすべての生き物や7世代後の子孫の意志を代表しているんだということをはっきりさせる。つまりつながりの感覚をあらためて思い起こし、そこから、「生きとし生ける皆のためになるような」話し合いを始めたので、そんなに意見対立することもなかったという。儀式でととのえた、厳かで愛情深いこの雰囲気の中、エゴイスティックな部分利害だけを代表する人など、出ようがなかったから。個人的な事情や愛着を度外視して全体のために考える人たちが一緒に考えるとき、何が最善かについて、たいてい同じようなところに落ち着く、というのは、今も変わらない。

それでも意見対立して、緊張が高まるとまた儀式を行って、つながりの感覚に戻ろうとした。

この「儀式」の習慣も、ジェファーソンはもちろん、取り入れることがなかった。だから、一致しない意見を無理やりまとめる多数決のシステムが必要になったのだ。

といっても、今の政治システムに儀式を取り入れるのは、難しく見える。妥協案として、アーレントが提唱したように、個人的、あるいは部分的利害を守ることを政治の名に値しないものとし議会から一掃。公共的なもの、つまりみんなのために、一人一人が寄与しようとするものだけを政治の場では取り上げるようにする。儀式のように、エモーショナルで身体的な体験にはならない理詰めの道だけど、直接行動の草の根のアクションと一緒にやれば、それに近いところまで行けはしないだろうか? 行動は、全身でやるものだから。皆のために、皆の前で、自分にしかできない貢献をすることを彼女は「公共的幸福」と呼んだが、これは政治的に表現されたつながりの感覚の体験以外のなにものでもないのではないだろうか? 

しかし「儀式」あるいは「公共的幸福」の力をつかって、皆が全体のために、意見一致するまで考えたアイデアで、国のような大きな単位が動くにはどうすればいいか?  

やはり、ガンディーや老子が考えたような、顔の見える関係でできた小さな自治の村がゆるやかにつながるようなシステムがいいのだろう。村で全員一致で決めたことを、その地域の村代表の会議で議決し、そこで全員一致で決めたことを、その代表がもう少し大きな単位の会議に持って行き・・・・と繰り返す。

もちろん今の政治システムからはちょっと想像もつかないけれど・・・
思い通りに政治が動いてくれない。そんな私たち対して彼のアドバイスは次の通り。

これまで通り、自分以外の人たちの働きに期待し続け、誰かが動けば問題は解決すると考えている限り、わたしたちは、自分たちの目的を達成して、その成果を手にすることはできない。
自分の身は自分で守るしかない。
政府がいかに努力したところで、あなたたちを救うことはできない。
どれほどの権力があろうとも、国民の支持が得られない政府など無力だ。
だから、明日はもう政府はないと思いたまえ。
そのとき、あなた自身が政府となるのだ。
(『ガンディ 魂の言葉』)

つまりナウトピアだ!

# by makikohorita | 2016-07-11 12:55 | 新しい世界をつくる!

ガンディーの経済観  受託制度・個人的非所有主義とは?

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包括的な全体のなかでものを見るのを徹底させると、かたや必需品も持てずに飢えている人がいて、かたやとても使い切れない財産を蓄えている人たちがいるのが、おかしいのも見えてくる。お金の流れを血流にたとえるならば、体の中のいろんなところで血流が滞り、血栓ができてて、全体の経済が重症のメタボ状態。

そこから、いま、ここで必要としないものを持っているのは、泥棒と同じといった経済観も生まれてくる。

でも、そうなると、泥棒も警察や軍隊に捕まえて貰えばいいというわけにはいかなくなる。縁起の法から、すべて関係しあった全体として捉える仏教の創生説でいうように、今、ここで必要以上の食糧を蓄えようとする人がいるから私有制が始まり、貧富の差が生まれ、格差がすすむにつれ、泥棒する人が出て、泥棒から身を守るために、武装集団を皆で雇ったところ、それが腕力に任せて皆を支配下におさめ、王権国家や身分制がはじまった(『起世因本経』)のだとすれば、私有制を支えるのは、組織的、構造的な暴力にほかならず、国家権力の本質には、この暴力が動いていることになる。

そんなふうに、今、ここで必要以上の富を、先行きが不安だからとか、楽をしたいからといって貯め込んでいる人たちは、他の人から奪っていると同じ。警察や軍隊の国家権力に守られて、見えなくなってはいるけれど、れっきとした暴力だと考えると、ガンディーが『ヒンドゥ・スワラジ』で説く奇妙な防犯方法もこの線から理解できる。そこでは、泥棒に、特定日に泥棒にくると宣告された場合の二つの対処法が書かれている。

一つ目は、警察、軍隊を動員して、できる限り自己防衛するもの。でもそれでは、けが人、死者が出る可能性があり、そこから憎しみ、復讐、「目には目を」の暴力の連鎖が広がる可能性がある。この家に泥棒に入れないから、代わりに近所に泥棒に入る可能性もあり、それまで平和だった地域が、物騒な場所になる。

これに対して、ガンディーが推奨する二つ目の盗人対処法は次の通り。

「あなたは泥棒を愚かな人間だと思い、いつかチャンスがあれば、そのことを説いてわからせてあげようと心に決めた。泥棒だって人間だとあなたは考える。いったいどんな理由で盗みをはじめたんだろう? その事情があなたにどうしてわかるだろう? それがわからない以上、あなたには、単純に罰することはできない。あなたにとって最善の道は、時が来れば、彼が盗みを続ける原因をとりのぞいてあげることだ。このようにあれこれ考えているうちに、あのお兄様がまた盗みにやってきた。あなたは腹をたてるというより、哀れみを覚えた。この人は病んでいると思った。あなたは故意に扉や窓を開けたままにしておいた。ただ、寝る場所は変え、財は全て持っていけるように、まとめておいてあげた。泥棒はやってきて、びっくりしてしまった。これはまた、なんと奇妙な様子だったからだ。品物は持って行ったが、心はどうも落ち着かない。村であなたの噂をきいて、あなたが慈悲深い人であるのを知るようになり、後悔して、あなたに許しを請うた。品物を返しにやってきて、泥棒稼業をやめ、あなたに使えるようになった。あなたは、彼にちゃんとした仕事を与えてあげた。これが、泥棒をやめさせる二つ目の手段です」(『ヒンドゥ・スワラジ』)。

もちろん、この話のようなハッピーエンドに終わる保証はない。全財産ごと持って行かれた上に、命も奪われることだってあるだろう。でもそうした「不信」の虜になると、「一つ目の手段」の悪循環からは逃れられない。「不信」代わりに、人間性に対する「信頼」を貫こうとするとき、結果的に破れ、殺されることすらあっても、その人は勝利しているというのがポイントだ。というのも、そのときその人は、暴力の悪循環を自分のところで止めるのに成功したのだから。また、全財産を「どうぞ持って行ってください」と手渡すことで、前回確認したように、格差と不公平感、暴力の起源になった私有財産制、「所有」と「自己防衛」のシステムの外に出ることもできたのだから。

ガンディーのこの精神を文字通り実践した人に、インド人の思想家、教育者のサティシュ・クマールがいる。彼は若い日、1万4000キロを無一文で徒歩で歩いて核大国の首脳に核兵器の放棄を説きに行くというアクションを行った。無一文で徒歩で歩くというのは、ガンジーのたとえ話の中で、泥棒から身を守るために軍隊を雇う人のまさに正反対。自分を守ろうとする姿勢を一切捨て、自分を世界と運命に明け渡す、自己防衛の放棄の究極のスタイルだといえる。

自己を防衛するとは、壁を築くこと、相手と自分が繋がっていることを否定することになる。防衛するたびに、壁を築き上げるたびに、恐れは強まり、そうこうするうちに、抑止的な軍拡競争がはじまってしまう。私たちがやらなきゃいけないのは、逆に、恐れをなくし、信頼を回復することだ。

特に興味深いのは、クマールもガンディも、自己防衛をまず、今、ここで必要な以上のものをたくわえることで、明日の保証も得ようとすることからはじまると見ていること。それは、他者を、人生を信頼していないという証拠。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」という聖書のセリフにもあるように、動植物にはできるのに、人間にはどうしてもできない「明日を煩わなくても生きていける」というこの信頼感の欠如に、戦争のはじまりを見るというのは、とても厳しいけれど、真理をついている気がする。

お金をもたずにちゃんと生きて旅を全うするには、助ける人は必ず現れるという、人間性に対する深い信頼も必要だ。命がけでも妥協や留保抜きになされたそのメッセージは極めて明瞭で、彼が何をしようとしているか、わかる人には即座に伝わる。旅が続くにつれ、一緒に歩こうとする人も現れて、目的地に着く頃には大行進になったという。そんなふうにして、ガンジーの精神も今に受け継がれている。

受託制度***
とはいえ、ガンディーが目指した経済制度は、社会主義や共産主義ではない。持てるものから、財産を巻き上げることも、暴力の一種だからだ。それに、巻き上げた財産を国家官僚機構が、上手に活用、分配してくれる保証はない。

実質上の富 = もの×それを活用し生かす力

と考えるとき、あらゆるものは、それを一番生かせる人のもとにあるのがいい。今、人より多くの財を持つ人も、理由があって、その人のところにあるって考えられる。つまりその人に管理能力があるということ。ただそれを適切に公共の福利のために活用しているかどうかは、チェックする必要がある。

そこから、すべての所有物は、借り物のように、管理者として自分に「託されて」いるだけで、「所有して」いるわけではないという、彼の理想の経済制度である「受託制度」の考え方が出てくる。

そこでは、能力に応じて、多くのものを「託される」のは確か。でも、能力が高かったり、その結果沢山の生産手段を持つ人ほど、それを皆のために生かす大きな責任を持っているということ。

私たちは、個人的な能力を自由に磨き、才能を発揮し、仕事を成功させる必要がある。でもそれは、あなた個人のためというより、それだけ沢山社会に貢献することができるから。

無所有を解くところは、社会主義に近いけれど、それを個人の自発性に委ねて社会的に強制しない。たとえば計画経済のように生産過程や手段までコントロールせず、すべて個人の裁量、自由に任せるところが違う。

生産性を高めるための才能、能力は結局のところ個人にしか宿らないし、個人を自由な状態におかないと、うまく発揮できない。自分の仕事の内容とか、やり方を、自分で自由に決めることができて初めて、創造性も発揮できる。その点、社会主義の国のように、計画経済に基づき、トップダウンで仕事を割り当てたり、国営の企業や農場で、やること、やり方まで決められ、クリエィティビティの生きる余地がほとんどない状況で働きなさいというやり方では、まずいのだ。

だからあくまで個人主義。といっても、この個人主義は、私益を最大化する、エゴのための個人主義ではない。自由な個人でなければ、最大化されない才能、能力を、個人として責任をもって発揮するのだけど、あくまでそれは全体のため。アジット・K・スグプタは、『ガンディーの経済学』でこれを「個人的非所有主義」と呼んでいる。
# by makikohorita | 2016-06-17 16:09 | 新しい世界をつくる!

チャルカ運動今昔

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ガンディーとナウトピアが一番近づくところってどこかなと考えたとき、
すべてを包摂しようとするなかで、自分たちと目的、行動を共有しない「敵」も中に取りこんで行こうとするところかなって思った。

ナウトピアの運動のつよみは多様性の包摂にある。言葉でやるのと違って、ポジティブな創造行為をともにしてやるとき、いろんな興味関心の人が入って来やすくなる。

ようするに、部分の相互作用が、足し算以上の結果を全体にもたらすシナジーが降り積もり、思わぬ展開がるので、ハチドリのひとしずくのようなものだと思われた実践も、気が付いてみればパワフルに膨れ上がってることもある。

コミュニティ・ガーデンはその好例といえる。都市の空き地に共同で野菜を植えて、食べ物を収穫していくコミュニティガーデンの運動も、動き出してみると、びっくりするほど、豊かな世界が生まれた運動の一つ。始まった当初はとにかく食を確保するためだった。昔は、食料不足そのものに対処するために、今は、見かけばかりの食料の豊かさの下、安心してたべれる食料がほとんどない問題に対処するために。でも、実際にアクションがはじまると、そこにいろんな人がいろんな力、いろんなニーズを抱えて、加わってくる。虫や他の生き物、土壌微生物たちも、新環境に移り住み、自分の仕事をし始める。その結果、始めた当初は想像もしなかったほどのゆたかな世界が生まれ、生態系の回復、人間の健康の回復、食の文化の復興とか、コミュニティづくり、貧困、ドラッグ、犯罪の連鎖からの解放だとか、いろんな産物が、ごっそり収穫できるってことがわかった。

シナジーを最大化するためには、参加者の多様性が生命線。すべての人が参加に開かれた状態を維持する必要がある。そこから、自分たちと正反対の考えや行動パターンを示す、いわゆる「敵」も、潜在的な味方とみなす必要も出てくる。


一つ目は、敵味方両者を包括する、全体の関係の中で、両者をとらえること。一見敵同士に見えた両者が似た者同士だったり、支えあってるようすが見えてくることがある。

この世のあらゆるものは、つながりあい、影響し合っているというのは、当たり前といえば当たり前。ただ、今、優勢な私たちの文化、教育から、アクターを一人一人、一つ一つ切り離した実体的に見ることの方が多いので、つながりは、見過ごされがち。とくに敵対関係は、この切り離しパラダイムを極端にまですすめるきらいがある。

車と戦うメンバーに対してクリスが言った言葉。かれらは潜在的な味方なんだ。
どちらもこの不幸な交通状況に苦しんでいるのだから。なぜなら同じストレスフルなストリートの犠牲者なのだから。
楽しく、誰しも歓迎する開かれた場をつくっていたら、明日は加わりたくなるかもしれない。

そんなふうに、共有の現実を構成するつながりの方から見ることで、敵と自分たちのつながりをさぐる姿勢は、ガンディーにもある。

たとえば、ガンディーがインドの植民地状態を解釈したやり方。バラバラに切り離されたアクターで、世の中できてると考えると、イギリスとインドという別個のものがあって、イギリスがインドを支配しているというふうに考えてしまう。となると、独立は、この二つのアクターの力の対決の問題になるし、武力でも経済力でもとてもかなわないなんて思ってしまう。

これに限らず、パワフルなアクターが、他のアクターを従わせる。じゃあパワフルになろうという政治的な解決法が前提としているのは、すべて世界をバラバラに切り離されたアクターからなるとする、このバラバラパラダイムの所産。それは、パワーの内実を腕力、武力に見ようと、経済力に見ようと、多数決のパワーにみようと、大して変わりはない。

でもガンディーはそんなふうにインドとイギリスを切り離した実体としてて考えず、両者が、どんなふうにこれまで関係してきたか、関係の方から、つながりを探ってみた。

帝国主義下のイギリスは原材料と市場が欲しい。インドはそのために原材料である綿花を持って行かれ、製品を買わされている。自分たちの国でできる綿花を自分たちで加工し、布を生産する能力を失った。と同時に、原材料より製品の方が絶対に高いので、恒常的にインドからお金がイギリスの方に流れていく仕組みにもなってる。

とはいえ、インド人も、綿花を売り続け、綿製品を買い続けている限り、このシステムを支えている。

この不幸な関係を、もっとハッピーな関係にするには?という見通しも出てくる。お互い自分たちに必要なものを必要なだけつくりましょう。自国に足らないものは、輸出してあげるけれど、自分たちの自立を阻むほどあげたりはしないよ・・・などなど。植民地が失った原料の加工、製造する力を取り戻し、搾取される隙間をふせぐには、地域単位の自給自足、地産地消する力を取り戻しさえすればいい。

鎖国する気はないけれど、自立に必要なことはしたい。このバランスを、ガンディーはタゴールへの手紙の中で、自分も、インドは外国への窓を開いて自由に交流すべきだと思ってる。でも、窓から吹きこむ風がつよすぎて、中にいる人の足をさらって、立っていられなくするようだったら、窓をしめる必要も出てくると語ってる。正確で秀逸な比喩! ここで問題になっているのは、まさに<自立>だから。

話が広がってしまったが、ようするに、敵と自分たちを包む包括的な関係がみえてくると、そのどこを調整すれば、全体がもっと健やかでハッピーな関係になるかも見えてくるというわけ。

その関係がどんなに病理的で、頑として動かないほど硬直した、自明のものに見えても、部分が変わると全体が変わる。その部分が、急所にあたる部分だったら、かなり変わることだってある。というのは、草の根で頑張っている人には吉報だ。

巨大な敵に向かって、無力な私たちが体当たりで頑張ってると思うと、絶望的に思える。でも、そんなふうに、包括的な関係をとらえて、関係の形全体を組み換えるための<急所>に注意やエネルギーを集中していけばいいってことになれば、気が楽になる

でも、こんなふうに包括的な関係から見ていくやり方は、厳しい面もある。事態がおかしい原因をただ「敵」と呼ばれる人たち押し付けて、自分たちは聖者顔なんてできなくなるからだ。

すべての人が少しずつでも全体に影響を及ぼしている以上、すべての人が状況に対して責任を持ってるわけだから。たとえば、お金の流れその他で、いつの間にか加担してたなんてことになりがちだ。
それは、特に、私たちが今身を置いている高度に情報化され、また交通網が発達した(いわゆる「地球がムラになった」)社会では必然でもある。リアルタイムの情報が得れるということは、事件が終わった後ではなく、事件進行中に、事件の過程に介入できること。ということはつまり、単なる傍観者としての態度がとりにくくなるということだから。

たとえば、ものすごい不正や災難が進行中のとき、それを知ってることが強いる責任感が、一人一人に課される。何もしないのも一つの参加の形態、自分は他者に関心がないという態度表明になってしまう。

また、愛着や誘惑を振り払うストイシズムや勇気もいる。

それにどんなに慣れ親しんでいて、愛着があっても、病的なパターンの拡大再生産にあたるプロジェクトに協力するのは、これ以上拒否しなければならなくなるからだ。

たとえばガンディーは、息子でも、悪しきシステムの再生産の片棒を担いでいたら、協力を拒むだろうと言い放つ。大好きなバナナも、それが搾取と貧困の原因になっていたら、食べられないってことでもある!

というわけで、ガンディーはチャルカ運動をはじめた。インドがイギリスに原材料を取られて、できた製品を買わされることで、どんどんイギリスにお金が出て行き、インドは自立力、生産力も失っていく、この病的な関係を直すために、綿製品の自給自足運動をやったわけだ。

同じことを今の私たちに当てはめるとどうなるだろう?

政権が悪いというけど、政権を支えている人たちがいる。なぜ、支えているんだろう。彼らが決定権を握るお金の流れに依存した人たちがたくさんいる。別の種類の仕事が心理的な不安に訴えるものがある。とすれば、それを変えていくために、今自分に何ができるか。

ガンディーのインドの独立の鍵は、綿製品の自給自足だった。今の私たちにそれにあたるのは? 『ナウトピアヘ』では、もちろん、食べ物、水、エネルギーといった必需品の確保とならんで、情報・サービスへとシフトしていく基幹産業の資源になっているクリエィティビティと、つながりを、利潤最大化システムに渡さず、自分たちで自分たちのものをまかない、めぐらせようと書いた。

だから、たとえば、コマーシャリズムの利潤最大化原理とは別のところで、安全、安心な食べ物をつくったり、とくに災害や汚染に関して、環境で何が起こっているか、バイアスのかからない情報シェアにつとめたり、また手作りのコミュニティスペースやカフェを作り、運営している人たち、あるいは、自分の本当にやりたい領域で、妥協なくクリエィティビティを発揮するために脱サラする人たちなどは今の時代のチャルカ運動をやっているんだって思う。

その際、重要なのは、利潤最大化原理や、国家権力、組織利害から独立していること。部分利害ではなく、全体利害のためにやっていること。そこさえはっきりしていたら、どんなに小さなことでも、力をもつんじゃないだろうか。それが、今かさぶたのように世界を覆う病的なシステムから、身を洗わせて清めてくれるのだから。ブラジルでの環境サミットで12歳にして名スピーチをしたことで有名になった(そう言えばこのスピーチも、子供だからできる純粋さが皆の心を打ったのだった)セヴァンの父、生物学者のディビッド・スズキは、次のように言っている。

NGOや草の根運動がこれほどまでに信頼を勝ち取ってきた理由は、その動機がはっきりしていたからだ。巨額の富や市場シェアや権力を狙っているのではなく、持続可能なコミュニティや子供達の未来、きれいな環境や原生自然の保護のために活動しているからだ。(『生命の聖なるバランス』307)

ただ、ガンディーのチャルカ運動のデザイニングは、どんなに貧しい、無教育な人たちも参加できて、彼らにとって「神」である、「食べていける希望」をつなぐことができたっていう点でとてもやさしいものだった。つまり、マズローの欲求図式の一番下のサバイバルに格闘している人たちに配慮したのである。これについては、チャルカ運動の前近代的、中世回帰的でナショナリスティックな側面に疑問をもったタゴールの懸念に対して答えたガンディーの手紙に述べてある。今のインドの状況で、一番無力で、どうしていいかわからない人たちも、自分でイニシアティブをとって独立運動に参加できる仕組みを考えたその結論がチャルカだったんだと。

もちろん、インドは、そうした人たちだけでできているわけではない。数はずっと少なくても、富裕階級、教養度の高いエリートもいる。でも、あえて、彼らも一緒に糸車を回すことで、貧しい人たちとの連帯感や謙遜の徳、自分たちの生活がどれだけ貧しい人々に負っていて、場合によっては彼らを搾取することで成り立っているかを思いやることができるというのが、ガンディーがすべての人たちのためにこの運動をすすめたわけだった。

私たちのチャルカ運動も、一番、弱い人たちも参加できるようにデザインするとすると、それはどういうものになるだろう? 一番、孤独で、クリエィティビティに乏しいと少なくとも自分が思っている人にフォーカスを当てて、そんな人たちも含め、誰でもできる自立と連帯のプラットフォームをつくるとすれば、どんなものになるだろう? 
私はまだまだ考えている段階だ。
# by makikohorita | 2016-06-13 12:29 | 新しい世界をつくる!

「ハチドリのしずく」の助け人

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 よろこびをますような環境運動ってどんなもの? それはどんなよろこび? 
こと環境問題のことを考えると、よろこびどころか、絶望してしまうようなことばかり。
放射能汚染、原発廃棄物と事故再発の可能性、それでも稼働をやめようとしない権力、気候変動、食の産業化。そんななかで、「よろこび!」なんていうと、抑圧して、カラ元気を振り起こす、嘘っぽい仕草になりかねない。
抑圧して、忘れよう、忘れようと心がけてるような心的要因があると、心の機能全体が鈍より麻痺してきて、感受性に乏しくなったり、創造力が減退したりするという。それがどんなに恐ろしいことでも、一番心配なこと、気がかりなこと、悲しいことを正面からしっかり見つめる勇気を持ちたい。

そうやって、これ以上落ちていかないような底を極めると、逆に、こころが安らかになって、安らぎから、じわじわ、行動力もめざめてくる。アメリカの環境活動家、ジョアンナ・メーシーも行ったように、「絶望こそが希望」なのだ。
そこから、新しい世界をコツコツつくるよろこびに満ちたアクションがはじまれば、って思う。でもそれは、あくまで、自分が一番気になる「絶望」をしっかり掴んで、そこから方向転換するアクションであってほしい。放射能汚染、廃棄物が心配だったら、発酵食品、自然栽培をして多様なバクテリアで体と土壌を満たそうとか、原発に代わる再生エネルギーをつくる、使うというふうに。そうでないと、「よろこび」は、単なる現実逃避になってしまう。

そこで一人一人ができることは、それこそ「ハチドリのひとしずく」。巨大な問題に対して、それぞれができることを精一杯やる・・・というかたちをとるかもしれない。

でも、必ずしも無力だと言えないんじゃないかというのも、ナウトピアの観点。実際、アクションがはじまり、新しい世界が少しずつでも目鼻立ちをあらわしていくと、いつも、思いがけない助け手が現れたり、思いがけない展開が待ち受けているからだ。

たとえば、私は今、北海道に住んでいて、冬の暖房には膨大なエネルギーがいる。だいたい石油を使うのだけど、石油利権がアラブ情勢を不穏にしたり、戦争の火種になってること、タンカーの事故の環境汚染、遠くの国からはるばる取り寄せていることの持つ不安要因(なんらかの理由で供給が途絶え、暖房できなくなったら死活問題だ)を考えると、問題あり。地元にふんだんにある木で暖房をまかなおうという結論に達した。で、薪ストーブとペレットストーブで家を温めることに。といっても、大変な作業で、苦労も多い。私一人はじめて、それでどうなるんだろう?とも思ったけれど、実際、薪を燃やしはじめると、家の住人や訪問者、炎の前に釘付けになる。美しさ、癒し、古代から人間が親しんできた光景を眺めている安心感、「やっぱり自然な暖かさが一番」などとつぶやいてる。エネルギー問題について、省エネについて、これ以上何にも言わなくても、体験を共有するだけで、みんなこれまでとは違った観点をもてるようになる。ゆらめく炎や、パチパチとはじける音、独特の臭い、体全体に広がる暖かさといったかたちで、火の神様、木の神様が助けてくれてる・・・そんな気がしたものだった。

都市の空き地に共同で野菜を植えて、食べ物を収穫していくコミュニティガーデンの運動も、動き出してみると、びっくりするほど、豊かな世界が生まれた運動の一つ。始まった当初はとにかく食を確保するためだった。昔は、食料不足そのものに対処するために、今は、見かけばかりの食料の豊かさの下、安心してたべれる食料がほとんどない問題に対処するために。

でも、実際にアクションがはじまると、そこにいろんな人がいろんな力、いろんなニーズを抱えて、加わってくる。虫や他の生き物、土壌微生物たちも、新環境に移り住み、自分の仕事をし始める。その結果、始めた当初は想像もしなかったほどのゆたかな世界が生まれ、生態系の回復、人間の健康の回復、食の文化の復興とか、コミュニティづくり、貧困、ドラッグ、犯罪の連鎖からの解放だとか、いろんな産物が、ごっそり収穫できるってことがわかった。

何より、コンクリートジャングルの中に突如出現した緑の園の光景自体が、道行く人に一番雄弁に、すべてを物語ってくれる。

計画通りにはなかなかいかないけれど、そうした協働がすすむたびに、テーマに深みと奥行きがでてくる。新しいタイプの人が参加しはじめ、パワフルな運動体になっていく。

全体が部分の足し算以上のものになる、そんなたくさんのシナジーをおこすためには、ここは「〜のための場所」といった特化した場所にせず、ゆる〜く構えるのがいい。来るもの拒まず、みんなの思惑が生きる開かれた活動の場をつくる。一見、些細で、人間的な物のなかに重要なこと含まれてるかも。

全体をコントロールして思ったことを計画通り達成するよろこびは諦める代わりに、意外な様々な出来事に開かれて、それを面白がるようなよろこびを大切にする。こうした世界をつくっていけるのだろう。

そうした協働、シナジーが降り積もり、その集大成として、出来上がった庭は、もう一つの世界。みんなが見たい世界の様々なパターンが、色とりどりの花のように咲いた「森」のようなもの。それが、「文化」と呼べるような、時空を超えて繁殖できる生態系になったとき、確実に世界が変わるって言えるんじゃないだろうか? 

そのためにはどんな態度が必要か、今、考えているところ。
# by makikohorita | 2016-06-09 15:27 | 新しい世界をつくる!
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人を、社会を動かす文化発信力を鍛えるには? スピリチュアリティ、アート、アクティビズムなどについて、調査、実践してわかったこと、日々思うこと。


by 堀田 真紀子
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