
化石燃料をつかったエネルギーや原発に頼りながら、これ以上エネルギーを浪費するのは持続不可能。これを機に、愛のエネルギーをもっと使おうよというのが、私たちの提案。愛のエネルギー? 眉唾? なんて思うかもしれないけれど、心をこめて、愛情たっぷりになされた仕事のおかげで、美味しい野菜や料理がつくれたり、問題だらけだった子供がすっかりおとなしくなったり、病気や怪我からの治りが早かったりするのを経験したことのある人は多いはず。人工物を作ったり、動かしたりするのは難しくても、人を含む生き物たちは、愛のエネルギーで動く。庭づくりや、農業、育児、教育、治療などの分野でいい仕事をしている人たちの隠れたエネルギー源になっている。行列ができるような美味しいレストラン、体の芯から癒されるスパなども、愛のエネルギーが集中してみなぎる場所だ。モノよりもそれがかもしだすよろこび、しあわせが評価され、産業の重点が製造業から情報、教育、ケアに移行していくこの時代、機械を動かすエネルギーよりも、育て育む愛のエネルギーで、実質上、世の中すでに動いてるって言えるんじゃないだろうか。このエネルギーをもっともっと作り出し、世界にみなぎらせることで満ち足りた人が増えると、不安から貪欲にかられる人もだんだんいなくなり、みんな今よりずっと少ない資源、物質的エネルギーで持続可能に生きていくようになるかも。
というわけで今日はこの移行をうながすためにも、愛のエネルギーのつくり方、育て方についてのヒントになるかもしれない体験談を少々。
柔らかなソファに身をゆだねるように・・・
私がこの愛のエネルギーを意識するようになったのは、3年ほど前に気功でアレルギーを治した体験が大きい。そのときの心身の変化に素直にしたがっていくと、これ以上勤め人生活ができなくなって、辞職したくらいドラマチックな変化だった。
そのとき。「あなたの体、とにかくものすごく緊張してる。ふっとゆるめてリラックスすればするほど、気のエネルギーが入ってきて、自然治癒力が活性するよ・・・と教えてくれた先生には本当に感謝している。とにかくあらゆる方法(うんと緊張させてさっと力を抜くとか、吐く息と一緒に、身体が液体になって沈み込んでいくのをイメージするとか)で、いつでもどこでも身体から力を抜くように心がけると、すさまじい涙、鼻水のデトックスがはじまり、はじめて半年経つ頃には、根強い目の充血も、片時も痛み止めを手放せなかったほどの眼精疲労からくる頭痛も、嘘のように消えてしまった。
そうやって症状が消えたあたりからもう一つわかってきたことがある。
自分でできることなんて何にもないので、おまかせします・・・と、力を抜けば抜くほどうまくいくというのは、あらゆることでいえること。自然治癒力が身体にみなぎってきて病気が治るだけじゃない。心の殻もとれて、対人恐怖の防衛感がなくなっていくので、人間関係もよくなる。人生のドラマ全体を一歩引いて外から眺めるような余裕もできるので、視野も広がり、ものの判断も間違うことがずっと少なくなっていく。
一言でいえば、とにかく楽。生きるために本当に必要なことって、ゆったりゆだねているときに、自動的に起こる。つまり、自分ですべきことなんて、何にもないことが、わかってくるから。
でも、だから怠けて何もしなくなるかというと、全くその逆。「生きていくのに本当に必要なことで、自分でできることなんて、何にもない、おまかせしよう」と思うと、楽になった分、余剰エネルギーがたっぷり生まれる。その余剰エネルギーが(比喩的にいってよければ)、目にするあらゆるものを、光でひたしていく感じなのだ。
なんでもない普段の風景が、どんどん美しく、愛おしく見えてくる。通りがかりの見知らぬ人が、わけもなくなつかしく、愛おしく思えてきたり、タゴールの言葉をかりれば、「塵さえ美しい」輝きに包まれて見えてきたり・・・
そうした気づきや体験は、当然、表現や行動をうながしていく。でも、そこには、無理に頑張んなきゃいけないといった強制感がぜんぜんない。それが、体を緊張させてぎゅっと縮めながら、エゴでやる仕事とは全く一番違うところ。
たとえば、この文章も、「書けたら書けたでうれしいけれど、書けなくてもいいし・・・」くらいの軽い気持ちで書いてる。書いているというより、おのずとできていってる感じ。だから力も入ってないし、ほとんど疲れない。
そんなふうに言うと、「霊感が降りてくる」「天才神話」みたいな、何かたいそうなことをしているように聞こえるけれど、全然そんな感じではなくて、呼吸をするようにごくごく普通の、まったく自然なことをしてるにすぎないって気がしてる。
逆に何か「たいそうなこと」をしていると思った瞬間、エゴが顔をもたげてきて、自意識過剰になってしまい、自然なことでも楽で楽しいことではなくなってしまう。増長したかと思えば、プレッシャーで一歩もすすめなくなったり、もうそんなアップダウンは、二度と繰り返したくないもんだ。
そうなりそうになっても、またまた、脱力。ふたたび世界を、人生を信頼してゆだね切り、あけわたせば、またいつものわたしに戻れる。
天職を続けるのは、鳥が空をとび、魚が泳ぐように自然なこと。何をしなくても、私たちが生きている限り果たし続けるもの。だから、変に使命感なんか持って身構えないほうがいい。
わたしにとって、それは書くことだけど、人によってその内容はさまざまだろう。そのときに動員されるのも、もちろん愛のエネルギーだ。
いくら脱力しているとはいえ、大まかなプランくらいは立ててる。といってもそれは、To Doリストをつくって、一つ一つDoneのチェックしていくように機械的に片付けたりするのとは違う。プランはモノではなくて、種とみなす。これからどう育っていくか、漠然とはわかっていても、実際はどんな展開になるかは予測もつかない。だから当然、そのために柔軟に対処する余地もつくっておく必要があるので、スケジュール帳は空白だらけ。
そんなわたしも以前は、なんとなくいつも根拠のない不安につきまとわれていて、「このままじゃだめだ」といつも焦ってキョロキョロして、身構えてた。時間を一刻も無駄にしてはダメだと、スケジュール帳は真っ黒。活字中毒で、食事中も本やパソコンのブラウザーをのぞくのをやめられない。善意で人が近づいてきても、攻撃されていると思わず身構えちゃうような被害妄想に付きまとわれていた。だからしょっちゅう目も充血。アレルギー症状につきまとわれていたんだってことも、今はよくわかる。
そうやって頑張っているときって、身体が傷ついているだけじゃなくて、キョロキョロしてるわりには視野狭窄で、ものの判断も狂いがち。息まいて頑張っているようで、生産性はきわめて低く、仕事そのものよりも「やんなきゃ」といいうプレッシャーだけで、クタクタに疲れてた(今は、「やんなきゃ」と思う前に生み出してる感じ)。執着はしても誰に対しても何に対しても、本当の意味で愛は湧かないので、当然、人間関係も支離滅裂。とにかくきつかったこと!
エゴによるこの手の自己防御や抵抗はすべて解除して、周りを信頼して、自分をゆだねるのは、最初は、高いところからとび降りるようなめまいを感じさせることだけど、思い切ってやると、本当に気持ちよく、ふわっとうけとめてくれるソファが、そこにあるのに気づかされる。それはいつもいつもそこにあったのだけど、遠くばかりキョロキョロしてみてたので、気づかなかっただけだ。
そのソファは、エゴよりずっと大きなわたしだ。あらゆる否定も、区別も知らないので、自然の治癒力をはじめ、この世のありとあらゆるものの生命とひとつにつながっているわたし。愛のエネルギーの充電器のようなもの。いつも、どこにいても、そこにどっしり身をまかせ、くつろぐのをやめないで、これからも生きていきたいって思ってる。
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by makikohorita
| 2016-07-13 12:19
| 新しい世界をつくる!